織田NOBU株式会社
最終更新日 2023/10/07

私の好きな武将、嫌いな武将

いろいろなカラーの戦国武将が居て、やっぱり戦国時代は面白すぎます(笑)。まさにエンターテイナーの宝庫である。
私の好きな武将、嫌いな武将

メジャー路線で構成しました

ピックアップしている武将は、結構メジャーな武将です。

個人的な好みとしては、戦国初期(1500~1560年)の群雄割拠・動乱期よりも、ある程度中央政権が固まった戦国後期(1580~1600年)の方が面白いと感じます。

地方よりも中央政権。

信頼性の高い文献が多く残っており、面白い逸話も多い点も影響してるのかな。

好きな武将

私の好きな武将を何人かピックアップしました。

織田信長

織田信長

この人の絶対的な所に惹かれてしまいます。

生き方も好きです。桶狭間で華々しく散るが如く、命を懸けた強襲(奇襲?)を行い、結果として死中に活路を見出している。

狂気を含んでいるが、決して無謀というわけではなく、その戦略はむしろ慎重な部類に属する。

かと思えば、「是非に及ばす(今さらどうこう仕方がない)」と言って、逃れられない死を受け入れ、矢が尽きるまで懸命に奮戦し、髪の毛一本残すことなく本能寺に散る。

何というか、清々(すがすが)しさ・潔(いさぎよ)さを感じます。

生き方が爽やかなんですよね。

豊臣秀長

豊臣秀長

ザ・弟の鑑(かがみ)

内々の儀は宗易(千利休)に、公儀のことは宰相(豊臣秀長)に」でお馴染みの豊臣政権のナンバー2。太閤秀吉に直接言いにくい事は、彼に相談すると良い。

秀吉とは父親を異にする弟であるとされるが、駆け出しの頃より兄・秀吉を生涯支え続けた。

ナンバー2という非常に立ち回りの難しいポジションを、持ち前の無欲・誠実さで着実にこなし、秀吉から絶大な信頼を得ている。

蓄財家としても知られており、彼の死後、莫大な量の金銀が蓄えられていたことが判明する。当然の如く、兄・秀吉はこの弟の遺産をボッシュートしている。

竹中半兵衛

竹中半兵衛

好きというよりも初恋に似たちょっと特別な想いを抱いている人物です。私のサイト内でも取り上げているので、良かったら一読してみてください。

正直、客観的に竹中半兵衛を見てしまうと、彼の逸話は息子である竹中重門の「豊鑑」という文献などを元にイメージされており、いわば身内による喧伝「身内補正」が掛かってしまっています。

多少なりとも誇張が含まれている恐れがあるということです。

私にとっては出会いが特別な人物なので、まぁそこは別にどうでもよいです。「評価が高い・低い」というよりも「特別な人」という位置付けです。

好きではない武将

「嫌いな武将」と言ってしまうと極端に排他的になってしまうので、「好きではない」という言葉に留めておきます。まぁ、あんまり好意的には思わない武将ということです。

豊臣秀吉

豊臣秀吉

羽柴秀吉ではない方の「豊臣秀吉」です。羽柴秀吉時代は好きです。

とにかく華々しい出世のサクセス・ストーリー全てを覆してしまいかねないほど、晩節を汚しまくった点がマイナスポイントです。

黒い!黒すぎる(笑)。人は権力者になると、こうも変わるものなのか。なまじ百姓の気持ちや反抗心を理解し、弱みを知っている点も恐ろしい。(刀狩りなど)

百姓の気持ちや苦労が分かる男が政治の実権を握ったのだから、さぞかし百姓フレンドリーな施策を実行すると思いきや、太閤検地によって確実に年貢を徴収し、年貢率も7公3民にまで引き上げている。

(※当時の平均ベースは6公4民)

一度握った権力は離しまへんでー。

武田信玄

武田信玄

家臣の総意ではあるが、実の父をクーデターにより追放し、当主の座に就く。

また、同盟国であった今川家の国力が衰えると見るや、駿河方面の方針転換を行い、今川家と縁戚を結んでいた嫡男の武田義信と対立する。

そして、かつて自分が父に行ったように義信が自分に対してクーデターを画策してることを予見し、これを幽閉&廃嫡している。(その後義信は死亡)

これは戦国乱世では至って普通のことであり、一見非情と思われるような謀略行為を繰り返して、武田信玄は領土を拡大している。むしろ戦国武将としては優秀である。

が、「人は城、人は石垣」と言いながら、義理の薄さが目立つ。さらには、内部崩壊・家臣の裏切りによって一か月足らずで武田家は滅亡している。(武田征伐 1582年)

まぁこれは、信玄が死んでからの「勝頼の代」であるが。

武田征伐で寝返った木曽義昌、穴山信君(梅雪)、小山田信茂などが有名どころであるが、彼らは武田家と縁戚関係に当たる。

まさに内部崩壊。人の石垣から崩れましたのぅ。

嫌いではない武将

これは「嫌いな武将」とは逆で、世間一般の印象よりも好意的、「嫌いじゃないよ、こういう生き方も」みたいなニュアンスです。

石田三成

石田三成

明智光秀タイプの陰湿なイメージを漂わせる石田三成。関ヶ原での敗戦。内政上手ではあるが、肝心の戦が下手。

私も中学生の頃は石田三成があまり好きではありませんでしたが、時代に抗おうとする姿勢、政権を横取りしようとする徳川家康許すまじの執念が結構面白いです。

死に際に水を所望するが、「水はないが柿ならある」と言われ、「柿は腹壊すから嫌だ」と答える。

「お前今から死ぬのに腹壊すの心配してどうすんだよ(笑)」と笑われるが、「大志を抱くものは、最期まで命を惜しむものだ」と言い放つ。

知り合いに居たら絶対めんどくさいタイプなわけだが、なぜだか憎めない。

吉川広家

吉川広家

毛利両川の一角、山陰地方を担当していた吉川元春の息子

関ヶ原の戦いにおいて、毛利軍の先鋒として南宮山に布陣する。この南宮山の毛利軍は、徳川家康本隊を背後から急襲できる絶好ポジションに位置している。

ところが吉川広家は徳川家康擁する東軍に内通しており、先鋒という軍勢の位置を利用して、毛利軍本隊の足止めを行っている。

吉川広家は「毛利宗家の本領安堵」を条件に内通したわけだが、いざ東軍勝利で合戦が終了すると、その条件は反故にされ、毛利宗家は取り潰しの危機を迎える。

徳川家康は、毛利家を120万石→30万石(周防・長門)とし、毛利家旧領の周防・長門は内通者の吉川広家に与えるつもりであったらしいが、主家のためを思って内通した吉川広家はこれを固辞、「毛利宗家の領地にしてくれ」と泣いて懇願している。

結果、何とか毛利家は存続するわけであるが、吉川広家は毛利家から大バッシングを受け、その後、吉川家は毛利家から差別的な扱いを受けることになる。

何というか、かわいそうである。主家存続を願って尽力し続けたのに、結果が悪かったのを理由に同朋から集中的に責められているのである。宗家当主の毛利輝元が西軍の総大将であったのにも関わらず、合戦に負けても毛利家を存続できたことも評価すべきである。

上杉謙信

上杉謙信

ミーハーかつ強すぎる戦歴(勝率9割超え)なために、無意識に敬遠してしまう感があるのですが、意外と人間臭くて結構好きです。

家臣の推薦によって当主の座に就くが、その家臣が問題児だらけで仲が悪く、家臣団がまとまらない。それに嫌気がさして、当主の座を放棄して高野山へ現実逃避・引きこもりの旅に出る。

いやぁ何か面白すぎますよね、この人。とても人間臭いところを感じます。

武田信玄との死闘の方が有名ですが、関東管領として彼は度々関東に出兵し、北条家と何度も事を構えています。北条家との合戦に勝利はするものの、毎回越後に引き返してしまうために、また北条家が盛り返してくるというイタチごっこを延々繰り返しています。少しは学習しなさい(笑)。

いろいろなカラーの戦国武将が居て、やっぱり戦国時代は面白すぎます。

まさにエンターテイナーの宝庫である。