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最終更新日 2023/10/07

真田昌幸 ~表裏比興の者と呼ばれ、家康も恐れたその知略

死してなおも家康を恐れさせたその知略とは? 真田3代の中でも特別異彩を放つ昌幸の生涯を詳しく紹介します。
真田昌幸 ~表裏比興の者と呼ばれ、家康も恐れたその知略

真田一族

真田一族といえば、真田幸隆・真田昌幸・真田幸村(信繁)の3代が有名ですね。特に幸隆から数えて孫に当たる真田幸村は、「真田日本一の兵(さなだ ひのもといちの つわもの)」と謳われ、大阪の陣における華々しい最期が日本人の心を捉え、現代でも絶大な人気を誇っています。

その真田3代の中で特別異彩を放つのが、2代目の真田昌幸であることは皆さんご存知かもしれません。

真田幸村は散りゆく姿が美しかったために有名になってしまった一発屋ですが、真田昌幸に関しては徳川・北条・上杉の3大勢力に挟まれながらも、小豪族の身から大名にまでのし上がり、徳川家康の軍勢を2度に渡り撃退した功績があります。

真田昌幸について

真田昌幸
生涯 1547年~1611年
知名度 ★★★
功績 ★★★★★

真田幸隆の3男として武田信玄・武田勝頼に仕える。武田信玄にその卓越した戦術眼を見出され「わが眼(まなこ)」と称される。主家滅亡後は織田家・北条家・徳川家・上杉家・豊臣家とめまぐるしく主を替え、表裏比興の者と呼ばれる。徳川家康の侵攻を2度に渡り撃退し(上田合戦)、大坂の陣においては死してなおも家康を恐れさせる

表裏比興の者とは

表裏比興の者とは、卑怯(ひきょう)という言葉から連想されるように、態度や去就をコロコロと替える者といってよいかと思います。というのも、真田昌幸のような小豪族の身にあって周囲を徳川・北条・上杉の3大勢力に挟まれる状態下では、情勢の急激な変化に上手く対応していかなければならず、逆に言えば、世渡り上手と賞賛されるべき意味合いも含んでいると思います。(皮肉と称賛)

主をめまぐるしく替える

1582年3月に武田家が滅亡し、追って1582年6月に本能寺の変によって織田信長が横死、織田家は崩壊に向かいます。織田家が崩壊したことにより、武田遺領の甲斐国・信濃国は大名達の格好の草刈り場と化します。(天正壬午の乱

天正壬午の乱 (※薄色はそれぞれが獲得した領土)
天正壬午の乱 (※薄色はそれぞれが獲得した領土)

この徳川、北条、上杉の3大勢力が激突する中、真田昌幸はその表裏比興の才覚を持って自分の領地を守ることに留まらず、領地の拡大まで果たします。そして信濃の小豪族にすぎなかった真田家を一躍大名にまでのしあげることに成功します。

北条氏政
青色
上野方面に侵攻。次いで北信濃・川中島方面で上杉軍と対峙、甲斐で徳川軍と対峙。
(上野方面を獲得)
上杉景勝
灰色
北信濃-川中島方面に侵攻。北条軍と対峙しにらみあいを続ける。のちに徳川軍と対峙。
(北信濃方面を獲得)
徳川家康
緑色
甲斐に侵攻。北条軍五万と対峙するがこれを一万の軍勢で撃退。のちに信濃に侵攻し上杉軍と対峙。
(甲斐・南信濃方面を獲得)
真田昌幸
赤色
上野に侵攻してきた北条氏政に一旦は降る。その後、徳川家康と結託し、北条軍の補給路を遮断することに成功する。その後は徳川家康と沼田地方の領土問題について対立し、上杉景勝の軍門に降る。そして最終的には羽柴(豊臣)秀吉に降ることになる。
(沼田・吾妻・小県地方を獲得)

この混乱の最中、領土を守り抜くことさえ大変であろうのに、領土を拡大(沼田・吾妻・小県地方)し大名にまでのしあがった真田昌幸の手腕はさすがといえる。以後、真田昌幸は徳川家康と沼田地方の領土問題で禍根を残し、両者は激突することになる。

沼田問題

さて、天正壬午の乱を経て悲願の大名昇格を果たした昌幸ですが、真田・徳川・北条の間には引き続き問題が生じていました。

というのも、徳川家康と北条氏政が甲斐国・信濃国を巡って甲府で対峙した際、真田昌幸の寝返りと北条軍への補給路遮断の功もあって徳川軍の勝利に終わったのですが、昌幸の主君となった徳川家康と北条氏政の間で、こんな条件の講和が結ばれました。

  • 甲斐国・信濃国は徳川領とする。
  • 上野国は北条領とする

上野国には、天正壬午の乱で真田昌幸が領有することになった沼田・吾妻領が含まれます。主である徳川家康は、真田昌幸に対しこの沼田・吾妻領を北条氏に明け渡すよう圧力を掛けます。これが後々まで沼田問題と呼ばれる禍根へと発展していきます。

真田昌幸版図
北条氏政
箕輪城、厩橋城
(みのわ)(うまやばし)
真田昌幸
上田城、戸石城、岩櫃城、名胡桃城、沼田城
(うえだ)(といし)(いわびつ)(なぐるみ)(ぬまた)
徳川家康
小諸城
(こもろ)
上杉景勝
海津城
(かいづ)

1. 家康との決別、第一次上田合戦

家康の領土明け渡し要求に対し、真田昌幸はこれを一蹴。上杉景勝の軍門に降ることを決断します。

このあたりが表裏比興の者といわれど、到底受け入れられない要求に対しては頑として立ち向かう、真田昌幸の戦国武将としての気概を感じますね。

そしてこれを機に、徳川家康と真田昌幸の間で第一次上田合戦が勃発します。

  • 徳川方・・・鳥居元忠、平岩親吉、大久保忠世ら 約7,000
  • 真田方・・・上田城籠城 約2,000

この戦では、真田昌幸の知略冴えわたる変幻自在の兵法によって徳川方をさんざんに打ち負かし、上田城や真田領の防衛に成功。近隣の支配力をますます強めることとなります。

2. 小田原征伐と北条氏の滅亡

ほどなく豊臣秀吉の治世となり、真田昌幸は豊臣秀吉の軍門に降ります。これまで尾を引いていた沼田問題については、秀吉の裁定によって「名胡桃城は真田昌幸、沼田城は北条氏のもの」となります。(1589年)

ところが同年、この名胡桃城を北条方が攻め取ってしまうという事件が起こります。これが秀吉の制定した、大名間の争いを禁ずる「惣無事令」に反するとして秀吉の怒りを買い、小田原征伐が始まります。

そして、これに徹底抗戦を決めた北条氏は滅亡してしまうのです。

天正壬午の乱から始まった沼田問題は、巡り巡って北条氏滅亡のきっかけになってしまったのです。

第二次上田合戦と、その後の昌幸

最後に、再び徳川家康との間で勃発した第二次上田合戦と、昌幸の死後に起こった大坂の陣において、死してなお徳川家康を恐れさせたエピソードについて紹介したいと思います。

親子の決別(犬伏の別れ)

天下人秀吉の治世の中、昌幸の治める信州上田の地にも一旦の平穏が訪れましたが、その平穏も長くは続きませんでした。秀吉の死によって野望をむき出しにした徳川家康と、それを阻止すべく立ちあがった石田三成との間で、日本を東西二分した天下分け目の戦が勃発します(関ヶ原の合戦)。

ここで真田昌幸を取り巻く環境をまとめます。

真田昌幸 昌幸の正室(山手殿)は、石田三成の正室(皎月院)の姉であり昵懇の仲。 西軍
(三成方)
真田信幸
(長男)
信幸の正室(小松姫)は、本多忠勝の娘 東軍
(家康方)
真田幸村
(二男)
幸村の正室(竹林院)は、大谷吉継の娘 西軍
(三成方)

婚姻関係もあって、奇しくも真田一族は東西二手に分かれることとなります。これについては「東軍西軍どちらが勝っても真田家は存続する」という真田昌幸の狙いがあったのかは定かではありませんが、昌幸のことならここまで計算に入れて事変に備えていたのかもしれません。

第二次上田合戦

徳川軍は軍を2手に分け、本隊の徳川家康軍は東海道から、別働隊の徳川秀忠軍(※)は中山道から関ヶ原方面に向かいます。そしてこの別働隊の徳川秀忠軍と真田昌幸との間で第二次上田合戦が勃発します。

※徳川秀忠軍は「形式上は徳川本隊」であるが、「実質的には別動隊」といえる。
※徳川秀忠軍は「形式上は徳川本隊」であるが、「実質的には別動隊」といえる。
  • 徳川方・・・徳川秀忠、本多正信、榊原康政、大久保忠隣ら 約38,000(徳川軍の超主力)
  • 真田方・・・上田城籠城 約3,000

この戦における真田昌幸の狙いは時間稼ぎであり、巧みに徳川秀忠軍を挑発・撃退し、上田城に1週間ほど釘付けにすることに成功します。徳川秀忠軍は上田城攻略を諦めて関ヶ原に向かうのですが、時すでに遅し、秀忠は信州木曽の馬籠にて関ヶ原の戦勝報告を受けるのでした。

2度に渡って煮え湯を飲まされた徳川家康は、天下を手中に収めた後、真田昌幸・真田幸村の父子に死罪を言い渡しましたが、真田信幸と本多忠勝の助命嘆願によって高野山の九度山に蟄居となりました。そして真田昌幸は、この九度山にて慶長16年(1611年)に波乱の生涯を閉じています。(享年65)

死してなお徳川家康を恐れさせる

長くなりましたが、最後に徳川家康がどれだけ真田昌幸を恐れていたかを窺うことのできるエピソードを紹介したいと思います。

昌幸の死後、豊臣家を叩き潰すために大坂の陣が起こります。ここで、昌幸の息子・真田幸村が大坂方として活躍することになるのですが、大坂城に「真田の者が登城した」という報告が徳川家康の元に寄せられます。家康は「それは父親(昌幸)のほうか?それとも息子(幸村)の方か?」と聞き、息子の幸村だと分かり胸をなで下ろすという一幕がありました。

死してなおも家康を恐れさせた昌幸の知略、おそるべし!