尾張中村の百姓から天下人(関白)まで登り詰めた秀吉。その輝かしいサクセス・ストーリーから歴史ファンのみならず、幅広い分野で高い人気を誇っています。
秀吉とはどんな人物だったのだろうか。
「木綿のような使い勝手の良さ」と評されることから分かるように、秀吉は、柴田勝家のように合戦による槍働きで出世したタイプではなく、知恵を働かせて出世したタイプといえるでしょう。私が強くイメージするのは「人たらしの達人」であったということです。
「人たらし」とは、人の心を掴んで自分の味方に引き入れてしまうことを指します。秀吉のもつ魅力によって、家臣の求心力を高めるのはもちろんのこと、敵の家臣まで引き抜いてしまうから、かなりの脅威です。秀吉の出世の道は、この「人たらし」の才能によって開花したといえます。
のちに秀吉の軍事参謀(軍師)となる竹中半兵衛を、中国三国志の劉備玄徳と諸葛孔明の主従関係になぞらえて、三顧の礼によって迎え入れたというのは有名な逸話です。
信長嫌いの竹中半兵衛を、断られながらも何度も何度も訪ねる秀吉。その熱意に根負けした竹中半兵衛は、秀吉に力を貸すことを約束します。
竹中半兵衛という男は無欲恬淡で出世欲が無い人物。こういった人物は恩賞や待遇で説得することが非常に難しい。竹中半兵衛も秀吉と接するうちに「この人の下で己の才能を試してみたい。この人なら何か大きなことを成し遂げられる。」と感じ取り、秀吉に力を貸してみたいと思ったのかも知れませんね。
信長なき後、織田家の今後を話し合うために重臣達が集まって清州会議が開催されます。この席で秀吉は事前に丹羽長秀や池田恒興らに根回しをして、自身のシナリオ通りに事が運ぶように仕向けます。
この根回しが功を奏し、信長の三男「織田信孝」を擁立する柴田勝家を抑え込み、信長の後継者であった信忠の嫡男「三法師」を擁立する秀吉が会議の主導権を握ることに成功します。
賤ヶ岳の戦いで宿敵の柴田勝家を滅ぼし、越中富山の佐々成政を大軍包囲により降したした秀吉は、上杉家と直接国境を接することとなります。上杉家を臣下に迎えるため、大胆にも秀吉は石田三成以下わずかな共を連れて、越中と越後の国境地帯にある落水(おちりみず)に向かいます。そしてここで、上杉家当主・上杉景勝とその参謀・直江兼続と、直接会見することに成功します。(落水の会見)
こういった敵の懐に大胆に入り込むパフォーマンスを秀吉は得意としており、またそれが彼の魅力の一つでもあったと思います。義を重んじる上杉景勝は秀吉を丁重にもてなし、上杉家は秀吉の臣下となります。落水の会見については諸説あり、創作であるとの声もありますが、秀吉の魅力を窺わせるエピソードのひとつであるといえます。
秀吉の人たらしの触手は、秀吉最大のライバルである徳川家康の元まで届く。
石川数正といえば、徳川家康がまだ今川義元の人質であった時代(6歳ごろ)から仕えてきた近習であり、また徳川家臣団の中軸をなしていた人物です。数十年という長きに渡って徳川家に仕えてきた石川数正も、秀吉の引き抜き工作によって徳川家を出奔し、秀吉に仕えることとなります。これには徳川家康も赤面し、悔しさを露わにしたことでしょう。
徳川家の軍事機密を細部まで把握していた石川数正が引き抜かれたことによる影響は大きく、これを機に徳川家は、軍事統制を三河流から甲州流(武田軍)に変えざるをえなくなったといいます。
秀吉が天下統一を成し遂げるには、徳川家康を味方につけることが必須条件でした。小牧・長久手の戦いで政略的に勝利を収めたとはいえ、戦略面では徳川家康の圧勝でした。そして依然として三河・遠江・駿河・甲斐・信濃を領する徳川家は、豊臣家の脅威のまま。さらに関東には北条家も健在であり、天下統一には程遠い状態でした。
秀吉はあらゆる手を尽くして徳川家康の抱き込み工作に奔走します。朝廷を介して、自分より高い官位を徳川家康に与えたり、すでに結婚して結構な年頃(40代)であった実妹・朝日姫を家康の正室に差し出したり、実母・大政所を人質に差し出したり、とにかく家康を上洛させようと必死でした。
この必死の工作にさすがの家康も折れ、上洛するとともに豊臣家への臣下を誓うこととなります。
徳川家康の立場としては、長期的には秀吉に勝つことは難しく、出来るだけ自分の評価を高く釣り上げてから臣下になるという思惑が成功したといえるでしょう。
この他にも、秀吉の人たらしの話として、伊達政宗の忠臣である片倉景綱を直臣に引き抜こうとしたり、上杉景勝の忠臣である直江兼続を直臣に引き抜こうとしてたといいます。
秀吉は優秀な人物や忠臣を自分の手元に置きたい願望が非常に強かった面があります。これは、秀吉自身が百姓の出身であり、信頼や歴史のある家臣団を持っていなかったため、人一倍そういったものに憧れていたのでは? という分析があります。