戦場において、大将とはどうあるべきなのか。織田信長と蒲生氏郷という、性格も生まれた年代も異なる二人の、戦場における振る舞いや人物像がよく分かるエピソードがあります。
どちらが大将として有能なのか、人によって意見が分かれる点もおもしろいと思います。
一般には知名度の低い蒲生氏郷(がもう うじさと)について、簡単に紹介したいと思います。蒲生氏郷については、私自身もあまり詳しくないので、基本的な功績しか知りません。
蒲生氏郷の父である蒲生賢秀は、近江(滋賀県)の六角氏に仕えていた武将です。織田信長が足利義昭を担ぎ上げ、岐阜城から5万もの軍勢で上洛する折、道中の観音寺城で当主の六角義賢と共に織田軍に対して抵抗します。(観音寺城の戦い 1568年)
軍勢に劣る六角氏はあえなく蹴散らされてしまい、主家の六角氏は滅亡しますが、織田軍に降伏した蒲生氏は以後、織田家に組み込まれてゆきます。
臣従の証として蒲生賢秀は、息子の鶴千代(後の蒲生氏郷)を織田信長に差し出します。これが蒲生氏郷(12歳)の、織田信長(34歳)との最初の出会いでした。
蒲生氏郷の非凡なる才を見抜いた織田信長は、自身の娘(次女)の冬姫を娶らせることを決めます。その後、蒲生氏郷は織田家の一門として、急速に拡大する織田軍の一翼を担ってゆくのです。
父の蒲生賢秀と同様、非常に義理堅く誠実な人柄であったという。後の天下人となる豊臣秀吉も、蒲生氏郷の器量を信頼し、関東の徳川家康と奥州の伊達政宗を牽制する重要な役割を任せています。(奥州会津への移封)
ただしこれに関しては、信長の娘婿であり器量に長ける蒲生氏郷の実力を秀吉が警戒し、あえて東北の地へ追いやったという分析もあります。蒲生氏郷自身も奥州会津への移封に際し、「これで天下への望みは完全に断たれてしまった・・」と、はらはらと涙を流したとも。
天下人となった秀吉は晩年、度々家臣を集めては雑談会を開いたといいます。これは秀吉自身がなぞかけ染みた談話を好み、また家臣の性格や思惑を探る目的もありました。
この秀吉の雑談に、織田信長と蒲生氏郷との性格の違いや、戦場における大将としての振る舞いについて述べた、非常に面白いエピソードがあります。
蒲生氏郷といえば織田信長がその才を高く評価し、また秀吉自身も厚い信頼(と警戒心)を寄せる器量人で、戦場においては先陣を切って突撃する勇猛さも兼ね備えた人物。
そんな蒲生氏郷が、織田信長の2倍の兵力を擁していた場合、どちらに味方するか? という問いかけである。
勝敗を決定する重要な要素のひとつは戦力差である。軍勢に油断がない限り、この2倍の兵力差を埋めることは難しい。
雑談の場に居合わせた家臣たちは返答に困りましたが、しばらくして太閤秀吉はこう答えました。
わしなら信長公に味方致す。なぜなら蒲生氏郷の軍勢から兜首(将首)を5つでも取ったならば、そのいずれかの中に必ず大将 蒲生氏郷の首級があろう。
ところが、信長公の軍勢の4,900人を討ち取ろうとも、その中に信長公の首級はあるまい。合戦は大将の首を取った側が勝ちである。だからわしは信長公にお味方する。
これは非常に面白いですよね。
蒲生氏郷の勇猛さを賞賛しつつも、大将というポジションの重要性や、織田信長という男の末恐ろしさについても語っています。
織田信長という男は、たとえ戦に負けようとも、大将さえ無事であれば、期を置いて何度でも軍勢を呼び集めて再戦できることを熟知しています。4,900人討ち取っても、まだ織田信長の首級が挙げられないと表現している所に、信長の執念深さ(常軌を逸した慎重さ)を感じます。
余談ですが、黒田長政の勇猛さを語ったエピソードにも、似たようなものがありましたね。
しかし、本当に先陣を切って勇猛に戦うことが悪いことなのでしょうか?
この点に関しては、意見が分かれそうなところですね。
みなさんはどちらが好みでしょうか(笑)。
現代の上場企業で例えるなら、上場企業に対して資金提供をする投資家や株主達は、織田信長のような「致命的な負けを喫しないリーダー」を好み、その上場企業で働く社員達は、上杉謙信のような「自ら先陣を切って引っ張っていくリーダー」を好むのではないでしょうか。
まぁ、立場の違いによって全然見方が変わってきそうですね。
織田信長公には5,000人の兵力。蒲生氏郷には10,000人の兵力が集まっていたとする。お主らならどちらに味方を致すか?