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最終更新日 2023/10/07

下剋上、最初にやったの誰よ?

戦国時代は下剋上の世の中ですが、それを先駆けて行ったのは誰なのか。その候補をピックアップしてみました。
下剋上、最初にやったの誰よ?

下剋上とは

下剋上とは、身分の下の者が上の者に取って代わることをいいます。現代でいえば、社長が平社員や便所掃除係に蹴落とされ、地位が逆転してしまうことを指します。

戦国時代はまさに下剋上の世の中ですが、その先駆けとなった人物にはどんな人が挙げられるのか紹介していきたいと思います。

当時の武家社会

室町時代~戦国時代に至るまでの、当時の武家社会における身分構造を簡単にまとめてみました。

天皇と将軍の関係、現代の日本政府に例えるなら?

1. 征夷大将軍

天皇から任命された武家の人間(源氏の流れをくむ)が、征夷大将軍(武家の棟梁)として幕府を開きます。現代で例えるならば、首相(内閣総理大臣)とでも言い換えられるでしょうか。首相(内閣総理大臣)であったり、大統領であったり、細かな議論があるようですが。

首相(内閣総理大臣)は、天皇が任命します(形式上)。しかし権限は大統領ほど強いものではありません。逆に大統領は強い権限を持ちますが、国民が大統領を任命するという点で異なります。

さらに国家権力は、三権分立によって行政・立法・司法に分散されているので、実際はもっと複雑なのかもしれません。

征夷大将軍は・・・どれに当てはまるんでしょうね。

2. 守護・守護代

守護・守護代は、征夷大将軍から任命された地方行政官のことです。現代で例えるならば、県知事や副知事に当たるポストのことです。「守護大名」と呼ばれるような大名には、薩摩の島津氏、豊後の大友氏、駿河の今川氏、奥州の伊達氏などが挙げられます。

よく守護大名が「名門」と呼ばれるのは、それだけ守護大名として地方を統治してきた歴史が古く、何代にも渡って家が受け継がれてきたからです。

ちなみに織田信長の家は、尾張守護代の清洲織田氏の、その家臣である清洲三奉行の中の一つ「弾正忠家」という家柄です。そして尾張守護代の清洲織田氏も、尾張守護の斯波氏から統治を任されているに過ぎません。

3. 国人衆

国人衆(こくじんしゅう)は「地主・地方領主・豪族」のことで、細かな地域ごとに力を持っていた人々のことです。現代で例えるならば、地元有力者とでも言えるでしょうか。

この国人衆が守護大名よりも力を蓄えることで、戦国大名として成り上がった例もあります。安芸の毛利氏などは国人衆の出自とされています。

下剋上の人物

先ほども説明したように、下剋上とは、身分の下の者が上の者に取って代わることです。守護よりも身分が下である守護代が、守護を蹴落とすことも下剋上といえるでしょう。また、国人衆が守護や守護代よりも成り上がることも下剋上といえるでしょう。

さらには、一介の素浪人が元々の国主に取って代わり、一国の主になることも、下剋上といえるでしょう。

戦国時代と呼ばれる時代は、応仁の乱によって室町幕府や守護大名の力が弱まり、各地で下剋上が盛んに行われた時代です。

その下剋上の先駆けとなった人物をいくつか紹介します。

朝倉孝景(1428~1481)

朝倉孝景

越前朝倉氏7代目当主。10代目当主の朝倉孝景(1493~1548)も同名を名乗っているが別人物。

朝倉孝景は、越前の守護代であった朝倉氏を越前守護にまでのし上げた張本人です。その後続いていく下剋上乱世のパイオニアとして、「天下の悪事を始めた張本人」などと酷評もされています。

元々越前国は、守護の斯波氏を中心に朝倉氏、甲斐氏、織田氏の三家が越前守護代として国政を執り仕切っていましたが、応仁の乱の混乱に乗じて守護代だった朝倉氏が越前守護職を任ぜられることになります。

守護代が守護を追い落としたケースですね。

北条早雲(1432~1519)

北条早雲

一般的に下剋上といえば、この人が一番有名なのではないでしょうか。

北条早雲の出自に関しては、一介の素浪人であるとか、幕臣出身であるとか、定かではありません。この点には論争があるようで、幕臣出身である「伊勢新九郎盛時」説が有力となっているようです。

北条早雲は駿河の今川氏親の下で功を立て、後の関東国盗りの拠点となる興国寺城を与えられています。その後早雲は、伊豆の堀越公方を滅ぼし、領土拡大に向けた第一歩を踏み出していきます。

「堀越公方」には、関東管領の山内上杉家や扇谷上杉家などが付き従っていたとあり、かなり権威の高い公方であったことが窺えます。ちなみに山内上杉家、扇谷上杉家の両家は、北条早雲の孫である3代目当主 北条氏康(1515~1571)に滅ぼされている。

尼子経久(1458~1541)

尼子経久

謀(はかりごと)多きは勝ち、少なきは負ける」という名ゼリフが印象的。このセリフはNHK大河ドラマ「毛利元就」で、緒方拳演じる尼子経久が言い放つセリフとして有名である。

尼子経久は「謀聖(ぼうせい)」と称されるほどの知将。後に中国地方を謀略を駆使して切り取っていく毛利元就も、この男の背中を見ながら育ったのかもしれません。

尼子氏は出雲国の守護代でしたが、尼子経久の代に守護代の職を解かれています。どうやら幕府をないがしろにし、威勢を誇る尼子経久の姿に、各所から反発が起こっての解任のようです。

尼子氏はその後再び、出雲国の守護代に復職している。そして出雲守護であった京極氏を差し置いて、出雲国の国主としての地位を盤石にしてゆくのです。

これも、守護代が守護を追い落としたケースですね。

斎藤道三(1494~1556)

斎藤道三

美濃の蝮(マムシ)」。娘の濃姫(帰蝶)は、織田信長と政略結婚をしたことで有名です。

斎藤道三の場合、その出自がはっきりとしていません。僧侶であったり、油商であったりと伝わりますが、確たる資料も存在しません。つまり、どこの馬の骨とも分からない男が、美濃国の守護大名である土岐氏を蹴落として、美濃一国を手に入れたということになります。

斎藤道三などは、まさに成り上がりの典型といえる。

朝倉孝景が越前守護に任ぜられたのが1470年代、尼子経久が月山富田城を奪還して威勢を盛り返すのが1486年頃、北条早雲の伊豆討ち入りが1493年頃、斎藤道三はもっと後の人。そうすると、この中では朝倉孝景が最初に下剋上と呼ばれるような行為を行った人ということになりますね。

インパクトの大きさでいえば、斎藤道三に軍配が上がりそうですが。

(出自不明の人物が市長になるパターン)