これを執筆することは少し恐れ多い気がしますが、十数年以上織田信長という男を見続けてきた私なりに、紹介していきたいと思います。
はじめに、信長の性格について簡単に紹介。
桶狭間の合戦で今川義元を討ち取った後、混乱する今川領(三河国)を侵略していれば領土を拡大することができましたが、領内の安定と標的を美濃の斎藤家一本に絞るために今川領の侵略は行いませんでした。
また基本的に、相手よりも多く軍勢を集められる場合にしか合戦を仕掛けません。長篠の合戦では大軍にもかかわらず、少数と見せかけて相手を油断させるためにワザと軍勢を山の窪地に隠す慎重っぷり。
信長は機が熟すまで、武田信玄や上杉謙信といった当時強大な軍事力を誇る敵と戦うことを極力控えていました。中央政権が安定するまで、こちらから頭を下げて同盟や婚姻関係を積極的に結んでいました。
武田信玄へは超高価な漆器を送り、上杉謙信へは屏風(洛中洛外図屏風)を送って友好関係を保つよう心掛けていました。
朝倉攻めの際、織田軍は浅井長政の裏切りによって挟み撃ちに遭うリスクを抱えました。勝利目前にして形勢不利と悟った信長は、即座に全軍撤退を決断しました。
また元亀年間(1570~1573)には、信長包囲網によって各地で敵対勢力に多面戦争を強いられ、信長の手が回らなくなりました。兵力が分散されることを嫌がった信長は、朝廷の力を利用して敵対勢力との和睦に持ち込みました。(決定的な敗北を避ける処置・リスク管理)
信長といえば「敵対勢力を一掃する」というイメージがありますね。実際にそういった側面もありますが、松永久秀の謀叛を2回許したり、一度敵対しても降伏や恭順するのであれば寛大に許しています。しかし、信長が呼びかけても一向に降伏しない敵対勢力に関しては、容赦なく叩きのめしました。
「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」という言葉があります。これは信長の合理的性格をうたったもですが、「無差別殺戮魔だった」というわけではありません。晩年の秀吉の方がよっぽどヒドイ殺戮を行っています。
目先の金銭のための関所が物の流通を著しく低下させていることや、座などの地方組合による独占性が商品の競争力を低下させていることに着目し、これらを撤廃させました。(楽市楽座)
港や水運など商品の流通経路を抑えることが、何よりも大切だと考えていました。有名な話として、足利義昭から畿内の領地や副将軍の誘いを断り、代わりに堺(大阪府)と大津(滋賀県)の港に代官を置く許しを得ました。
信長は生涯において、身近に相談役や軍師のような参謀を置きませんでした。「社長の俺の決めたことは絶対」「従わない奴は辞めろ」といった非常にワンマンな面がありました。
ワンマン経営の良い所は、「会議における意見対立の時間を省略でき、即断即決で素早い行動ができる点」が挙げられるかと思います。
いくつか信長の性格について紹介しました。こうやって文章で挙げるだけでも、織田信長という男の人物像がイメージできたかと思います。織田信長の結構人間臭い部分や、現在に通じる経済感覚などを感じ取ることが出来ましたら幸いです。
信長は何を目指し、そして道半ばで倒れてしまったのでしょうか。
信長はその奇抜な発想と強烈なリーダーシップで、常人が成しえなかったことを次々と実行していきました。そしてその先に信長が目指したものは、「旧権力に頼ることなく自らが絶対神となり、強力な秩序によって国家を束ねること」であったのかもしれません。
この理想を実現するためには、2つの強大な権力と戦わなければなりませんでした。そう、織田信長の前に立ちはだかったのか朝廷と幕府という2大権力です。
この2大権力は必ずしも解体する必要はなく、2大権力と共存するという生き方もあります。旧来の日本式な統治方法は、あくまで朝廷を権威のトップとし、朝廷から委任された役職に就いて国家を統治するというやり方です。
伝統的な日本統治(例)信長はこの旧来の仕組みを破壊・解体しようとしていたのかも知れません。
強大な軍事力・権力を背景にして、万世一系の当時最高権威を誇る朝廷をも、さらなる高見から見下ろそうとする信長。
信長の権力の象徴である安土城の作りを知ると、そのことが如実に分かると思います。
天に恋する信長! 天への飽くなき挑戦! まさに中二病!・・・いやなんでもないです(笑)。
この他、朝廷に圧力を加える行為として、
などが挙げられます。
朝廷をないがしろにしようとする信長、そしてこの後起こる本能寺の変、信長暗殺、光秀と朝廷との関係・・・。
う~ん、臭い、キナ臭いぞ~!