畿内に威勢を誇っていた三好長慶の右筆(秘書・書記官)として頭角を現し、次第に主家をも凌ぐ実力をも備えていく。やがて織田信長が足利義昭を奉じて大軍で上洛を果たすと、真っ先にこれに恭順している。織田信長から政治・外交手腕を買われ、以後は大和一国の統治を任される。信用のおけぬ老人と言われ、度重なる謀叛を敢行したにも関わらず、信長は何度もこれを許しており、その実力と利用価値の高さが窺える。
天下の三悪事、多聞山の天守、名物茶器の平蜘蛛茶釜とともに爆死など、数多くのおもしろエピソードがあり、非常にエンターテイメント性の高い人物といえる。そのため、腹は真っ黒だが人気は高い。
松永久秀の逸話、面白エピソードを紹介!
松永久秀は、常人では到底成し遂げられないような三つの悪事を行ったとして、織田信長から軽蔑(ある意味賞賛か?)されている。信長の言う「三つの悪事」とは、以下のことである。
魔王と呼ばれ、比叡山焼き討ちなど神仏をも恐れなかったあの信長をして、このように言わしめる松永久秀という男、相当の悪人のようである。しかし、信長は松永久秀を大和を束ねる実力者として重用し続けている。何かと規律(モラル)にうるさい信長も、この狡猾な老人の才を高く評価しているのである。
松永久秀の居城である多聞山城は、塁の上に長屋状の櫓(やぐら)が居並び(多聞櫓)、要所には四階建ての櫓が建ち並んでいたという。この四階建ての櫓は、後に「天守」と呼ばれるような築城建築様式の先駆けとなっている。
織田信長は、松永久秀の築城した多聞山城の天守造りからインスパイアされて、天下の名城「安土城」を築城したとされる。(※信長の場合、「天守」ではなく「天主」と呼んでいるが)
また、松永久秀は信長に恭順する際、「九十九髪茄子」と呼ばれる名物茶器を献上している。松永久秀は平蜘蛛茶釜をはじめ、何十種類もの名物茶器を保有する著名な茶人であったとされる。この松永久秀の影響により、信長も「茶器コレクター」の道を歩み始めたともいわれている。
ちなみに、後に大名間に「茶の湯」と呼ばれるブームが訪れるわけであるが、それに伴って茶器は相当な高値で取引されるようになる。関東方面軍を指揮していた滝川一益などは、「領地よりも茶器をくれ!」というほどであり、その熱狂ぶりが窺える。このとき滝川一益は、「珠光小茄子(じゅこうこなすび)」と呼ばれる名物茶器を所望したとされる。
信長が喉から手が出るほど欲しがった「平蜘蛛茶釜(ひらぐも)」。蜘蛛が地面に這いつくばったような姿がその由来である。
真っ先に織田信長に降るという、身の軽さと時勢を読む先見性に富んでいた松永久秀であったが、心底信長に忠誠を誓っていたわけではなかった。
元亀年間(1570~1573年)は、信長にとって最も苦しまされた時期である。畿内に足利義昭を中心とする信長包囲網が形成され、各地で苦戦を強いられている。この一番苦しい時期に、松永久秀は信長を見限って謀叛を起こしている。結局、頼みとしていた武田信玄の病死などの不運が続き、織田軍に多聞山城を包囲され降伏している。
織田信長は、裏切り者に対しては非常に厳しい処分を下すことで有名であるが、このときは松永久秀を許している。まだまだ殺すには惜しい利用価値のある人物と判断したのかもしれない。
そして1577年、再び松永久秀は信長に歯向かうことになる。越後の上杉謙信が上洛するのを見越しての謀叛であったとされる。上杉軍は手取川の戦い(1577年)で織田軍を蹴散らし、また本願寺、毛利とも呼応して信長包囲網の再形成がされようとしていた。そんなときに、松永久秀は謀叛を敢行している。
この判断に関しては、完全に時期尚早というか、やってしまった感がある。上杉軍が上洛するのを確認してから謀叛を起こすべきであった。結局、上杉謙信も翌1578年に脳卒中で死没している。
織田信長はこの謀叛に対しても、「平蜘蛛茶釜を渡せば命は保証してやる」と勧告しているが、松永久秀はこれを一蹴し、平蜘蛛茶釜に爆薬を詰めて、それを抱えながら爆死するのである。
享年68。梟雄と呼ばれた老人の、最期の抵抗であった。