薩摩の名門である島津家出身。兄であり当主でもある義久を盛り立て、島津家の発展に尽力する。最盛期には九州の大半を領するまでになるが、九州統一目前にして、20万もの大軍で押し寄せてきた豊臣軍に降伏する。九州における覇権争い、朝鮮出兵、関ヶ原敵中突破と、話題に尽きない人物で、次期大河ドラマ有力候補の一人でもある。義弘が実際に、「チェストぉぉぉ!」と戦場で叫んでいたかは不明。
寡兵で大軍を打ち破るその統率力もさることながら、「釣り野伏せ」や「捨て奸」といったお家芸も光る。四男の家久も義弘に引けを取らない猛将として有名であり、島津家はチート軍団と呼ばれている。
島津義弘の逸話、面白エピソードを紹介!
島津家といえば、島津義弘や島津家久ら四兄弟を生んだ薩摩の名門である。祖父の島津忠良が、四兄弟それぞれに異名を付けていることも、誇張にさらなる拍車を掛けている一因だろう。島津忠良いわく、
島津義久 (長男) |
三州の総大将たる徳が自ら備わっている。 |
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島津義弘 (次男) |
勇武英略をもって傑出する。 |
島津歳久 (三男) |
始終の利害を察する知計に優れる。 |
島津家久 (四男) |
軍法戦術に妙を得たり。 |
と、このようにベタ褒めなのである。(そんなに孫がかわいいか!!)
寡兵で大軍を打ち破り続けたのは事実で、木崎原の戦い(1572年)においては、伊東義祐率いる3,000の軍勢を、島津義弘はたった300で撃退している。また、島津家のお家芸「釣り野伏せ」という伏兵戦術で、軍勢に勝る大友軍や竜造寺軍を打ち破り、九州の覇権を握っている。
強すぎであるがゆえに、チート軍団とも呼ばれている。
「グイシーマンズ!!」
「グイシーマンズ!!」
何のことかと思うが、これは鬼島津のことである。朝鮮の役において朝鮮軍や明軍は、島津義弘を恐れ、「鬼石曼子(グイシーマンズ)、怖いよぉ・・・」との言葉を遺している。
その朝鮮軍・明軍を震え上がらせるきっかけとなったのが、泗川城(しせんじょう)の戦いである。泗川城(泗川倭城)を守る7,000の島津軍は、20万という大軍で押し寄せる朝鮮軍・明軍に対し「釣り野伏せ」を発動し、3万8,000もの首を討ち取っている。対する味方の損害は数名であったとか・・・。
そら恐れるわ。
猛将島津義弘の武名を天下に轟かせることになるのが、この有名な「関ヶ原敵中突破」である。
島津家は石田三成率いる西軍として関ヶ原の戦いに参加しているが、はじめは東軍に味方しようとしていたともいわれている。徳川家康が上杉征伐に赴く際、島津義弘は伏見城の留守を家康から頼まれている。ところが、いざ伏見城に向かうとそこには家康譜代の鳥居元忠が居り、義弘は追い払われてしまう。この事件がきっかけで、島津軍は西軍に付くことを決めたとも。
また、上方に上った島津軍は1000人ほどの寡兵であり、周りは西軍だらけであったことも、西軍に組せざるを得なかった理由とされてもいる。
いざ関ヶ原の戦いに西軍として参加したものの、島津軍の士気は低く、積極的に軍勢を展開することはなかった。そうしている内に西軍は総崩れとなり、島津軍も撤退を余儀なくされる。
普通であれば撤退は「敵に背を向けて敗走すること」であるが、何を血迷ったのか島津軍は、大胆にも敵のうごめく中へ突撃を開始する。死中に活路を開こうとしたのである。
退路を断たれた背水の兵は、死兵と化すといわれる。この島津軍の突撃に東軍諸将は怯み、自軍の損害を恐れて道を開けることになる。ほどなく井伊直政、本多忠勝らが追撃を開始するが、島津軍はここで恐るべき戦法を使う。
捨て奸(がまり)である。
捨て奸(がまり)とは、トカゲの尻尾のように隊の後方を少しずつ切り捨て時間を稼ぎ、本隊を生還させる戦法である。切り捨てられた小部隊に待つのは死のみ。このような戦法は、よほど忠誠心や部隊の士気が高くなければ実行できない戦法であるが、島津義弘を何よりも慕う薩摩隼人であるからこそ、成し得た戦法といえる。
この決死の敵中突破によって井伊直政は負傷し、このときの傷が元で亡くなっている。また、島津義弘一団が本土の薩摩に帰還した頃には30人ほどに減っていたという。この奮戦もあってか、島津家は西軍に加担しながらも本領安堵を勝ち得ている。徳川家康も、島津家と争うことを極力避けたのかもしれない。