秀吉子飼いの武将。同僚の福島正則らとともに武断派としてカテゴライズされている。対局の文治派である石田三成とは犬猿の仲。単なる脳筋バカではなく、熊本城など築城の名手。また熊本城下の治水や治世に勤しみ、領民からも慕われた。その名残りか、地元熊本では「せいしょこ(清正公)さん」というニックネームで親しまれている。豊臣恩顧の一本気な所があり、見た目通りまさに剛腕実直な人柄が窺える。
その長い髭がトレードマークである。次期天下人になった徳川家康から「その髭ちょっと何とかならないの?」と言われるが、「この長髭が気持ちいいんですよ」と切るのを断っている。虎加藤、地震加藤など、「○○加藤」とあだ名をつけられることに定評がある人物。
加藤清正 (1562~1611)
加藤清正の逸話、面白エピソードを紹介!
加藤清正の血縁を辿ると、実は秀吉の母「なか」と清正の母「いと」は、従姉妹(いとこ)同士である。そういった縁者の間柄から清正は秀吉に仕えることになる(1573年頃)。その3年後、15歳で元服した清正は以後、秀吉子飼いの武将として働き、豊臣恩顧筆頭の存在に成長する。
清正の名が世に知れ渡るような武功をあげるのが、天下分け目の「賤ヶ岳の戦い」においてである。賤ヶ岳の戦いは、天下人に猫まっしぐらな秀吉が最大のライバルである柴田勝家と雌雄を決した戦いであるが、このとき清正は、緒戦の勝利で勢い余る佐久間盛政・勝政兄弟の軍勢に奇襲をかけて戦功をあげている。また、柴田方の山路将監正国という猛将と一騎打ちの末、組打ちにより清正が正国の首を討ち取っている。
これらの武功により、清正は同じく秀吉子飼いの福島正則らとともに「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれるようになる。
加藤清正の猛将っぷりを発揮するエピソードには、朝鮮出兵時のものが多い。というのも、加藤清正は秀吉と年齢的に20歳以上も離れており、いわゆる「遅れてきた世代」であり、清正が大人になる頃にはすでに大勢は豊臣政権に決していた。また、秀吉亡き後起こった関ヶ原の戦いにも清正は参加しておらず、遠く九州の地で黒田官兵衛と連携していたくらいだ。
壮年期の有り余るエネルギーは、秀吉の朝鮮出兵で爆発する。
領土欲にうごめく秀吉、必死でそれにしがみつく諸将たち。先鋒を争う加藤清正と小西行長。加藤清正の暴走は止まらない。その勢いは第一目標である朝鮮半島を抜け、北のオランカイと呼ばれる遥か辺境まで行き過ぎてしまうのである。(笑)
豊臣秀吉亡き後、次の天下を狙う徳川家康がすぐさま動き出す。豊臣秀吉に忠節を尽くしてきた諸将もこの流れに遅れまいと、次第に秀吉から家康への鞍替えが進んでゆく。その流れは関ヶ原の戦いで決定的となり、秀吉の遺児「秀頼」や「淀殿」が健在にも関わらず、徳川家康は次の天下人と目されるようになる。
関ヶ原の戦いにおける加藤清正は、徳川家康の東軍に味方して九州で軍勢を動かしている。家康を選んだ理由については、「石田三成に味方するくらいなら、少し野心的で危ないが家康の方がまだ信用できる」といった判断があったのかもしれません。
清正の三成嫌いは有名で、朝鮮出兵時に三成の讒言(チクリ)で主君秀吉から謹慎(蟄居)させられたり、死にもの狂いで朝鮮から帰国したのに、後方で安全に過ごしてきた三成に「お茶でもしない?」と誘われたことに腹を立てたり、しまいには他の武断派と団結して「石田三成襲撃事件」を起こしたりと。
関ヶ原の戦いで勝ち組には付けたものの、清正は家康の次第に具体的になる天下への野心に危機感を抱きます。次第に秀頼をないがしろにし、上から目線になり出す家康。
そんな折、家康が「秀頼、ちょっとワシに会いに顔を出せや」という脅し案件が発生します。この家康の態度に淀殿はじめ大坂方は立腹しますが、「清正の説得」「時勢が完全に家康に傾いている」「争いを避けて穏便に」などの理由からこれを呑み、両者は会見することとなりました。(二条城会見)
豊臣家の行く末を憂いていた清正は、この会見に秀頼とともに同行します。秀頼暗殺を警戒する清正は、何か事あらば、家康と刺し違える覚悟でこの会見に臨み、何とか無事に秀頼を大坂まで送り届けることに成功します。大役を終えたその直後、清正は急な病によりこの世を去ります。(1611年 満49歳没)
清正の死後、大坂の陣により豊臣家は滅亡、また加藤家も改易されてしまいます。同じ秀吉子飼いの福島家(福島正則)も改易、この辺り、徳川幕府が危険な目を摘んだ感がハンパないですね。