後北条家の3代目当主。武田信玄や上杉謙信と対等に渡り歩き、両者に一歩も引けを取らない器量をみせる。山内・扇谷上杉連合軍8万5千をわずか1万1千で打ち破った川越夜戦は、「日本三大奇襲」のひとつに数えられ、その後の関東の覇権に大きな影響を及ぼす戦となる。後北条家5代の中興の祖として、重要な役割を果たした人物。政治分野においても優れた手腕を発揮し、まさに文武両道の武将といえよう。
幼少の頃は、鉄砲の音に怯えてしまうような臆病な子供であったが、成人後は顔面に「北条疵(きず)」と呼ばれる刀傷を負いながらも、勇猛果敢に戦う逞(たくま)しい武将へと成長する。
北条氏康の逸話、面白エピソードを紹介!
文武両道、勇猛果敢な武将として関東にその名を轟かせた北条氏康であるが、意外にも幼少期は慎重で臆病な子供であったとの逸話が残っている。
氏康がまだ国王丸と呼ばれていた頃(12歳頃)の話です。家臣が訓練のために放った鉄砲の音に驚き、国王丸は思わず耳を塞いでうずくまってしまいました。
これを見た家臣達は「国王丸様は臆病者だ(笑)」と嘲笑しました。
このことを恥じた国王丸は、切腹を決意し、自分の持っていた短刀を腹に当てます。これに驚いた家臣の清水という者が国王丸を静止し、こう助言をしたといいます。
「古来より勇猛な者は、物音によく驚くといいます。それは勘が鋭いという証でもあります。」
この幼き頃の体験を経て、北条氏康は勇猛果敢かつ冷静・慎重さも併せ持つ武将へと成長を遂げていきます。怖いと思ったことをそのまま表に出す正直さと、恥ずべきことには頑(かたく)なな決意を見せる、幼少ながらに大器の片鱗を見せてくれるエピソードです。
ちなみにこの逸話の時系列に注目するに、北条氏康が驚いたとされる鉄砲の逸話は1527年頃、種子島にヨーロッパ製の鉄砲が伝来したのが1543年頃であるので、両者は別ルートのものといえます。北条5代記によると、1510年に唐(中国)から鉄砲が渡来したとあるので、北条氏康が驚いた鉄砲はこの中国ルートのものであった可能性が高いです。
北条氏康が後北条家の当主となってほどなく、西の今川義元と東の山内・扇谷上杉連合軍に挟撃され、滅亡の危機に立たされます。氏康は挟み撃ちに合うことを避け、西(駿東郡)の領地を今川義元に割譲することで和議を結びます。(第2次河東一乱)
挟み撃ちという最大の危機を回避し、氏康は東の山内・扇谷上杉連合軍に全力を傾けることができるようになります。とはいえ、山内・扇谷上杉連合軍は総勢8万5千。包囲されている川越城の城兵は3千。氏康が最大限動員できる兵8千と合わせても1万1千。危機的状況は続きます。
氏康はわざと下手に出て和議を持ちかけたり、兵を布陣させても戦わずに撤退させるなどして、上杉方を徐々に油断させていきます。半年にも及ぶ長陣もあって、大軍を誇る上杉軍の士気は落ち、完全に油断しきっていました。
かくして士気旺盛、存亡かけた北条軍の夜襲は成功し、8万5千の軍勢を1万1千の寡兵で破った川越夜戦は、後世になって「日本三大奇襲」と呼ばれるようになります。(残り2つは厳島合戦、桶狭間の戦い)
攻めるときには果敢に攻めるが、引き籠るときは引き籠る。
北条家が居城としていた相模の小田原城は、堅城としても知られており、上杉謙信や武田信玄とケンカして攻め込まれたときにも、頑として敵兵を寄せ付けませんでした。
名だたる武将を跳ねのけ、いわばお家芸ともいわれるこの「引き籠りプレイ」は、息子の氏政や孫の氏直にも引き継がれることとなりますが、知っての通り、天下人秀吉の前には何の役にも立ちませんでした。
「氏政さん、氏直さん。籠城は援軍に期待できるときや、相手の兵糧が持たないときにやらないと、意味ないでしょ!(笑)。」