織田NOBU株式会社
最終更新日 2023/10/08

直江兼続の性格や、面白い逸話(エピソード)は?

あれだけ上杉家のために身を粉にして尽くしてきた直江兼続ですが、没後の直江家は不遇であり、心が痛みます。関ヶ原の折、家康に送り付けた「直江状」は、この人の代名詞ともなっている。
サムネ

こんな人! (人物像)

上杉景勝の孤高の忠臣。はじめは樋口兼続と名乗っていたが、越後の名門「直江家」が断絶の憂き目に遭うとこれを継ぐ。直江兼続の政治手腕は非常に優れており、主君の上杉景勝を差し置いて豊臣秀吉に寵愛されていた感があり。石田三成と結託して徳川家康に対抗するも、あえなく失敗し、その責任の矢面に立たされてしまう。そのとき家康に突きつけた「直江状」は、この人の代名詞ともなっている。

あれだけ上杉家のために身を粉にして尽くしてきた直江兼続ですが、没後の直江家は不遇であり、心が痛みます。領内の政治を独りで取り仕切っていたため、反感する者も少なからず居た模様。

直江兼続(1560~1619)
直江兼続(1560~1619)

呼び名など

  • 樋口与六
  • 直江山城守

性格など

  • 豊臣政権ではその政治手腕を存分に発揮し、豊臣秀吉から「天下執柄の器量人」と評されている。忠臣や優秀な人材を好む秀吉は、「わしの直接の家来にならないか?」と誘ってもいる。
  • 「義」に厚い武将として知られている。主家の上杉家の家風が「義」を重んじていることもあり、また、石田三成を手を組んで「義軍(西軍)」を編成し、徳川家康率いる東軍を挟み撃ちにする計画を練る。
  • 関ヶ原の合戦に敗れると、上杉家は米沢30万石へ減俸となる。石田三成の遺児が米沢へ逃れてくると、上杉家取り潰しのリスクを負ってまでして、これを匿(かくま)う。

おもしろエピソード

直江兼続の逸話、面白エピソードを紹介!

直江状と上杉征伐

わしは こんなとこ来とうはなかった」のセリフで一時有名となった直江兼続ですが、やはり直江兼続といえばこの「直江状」が有名ですね。

織田軍の侵攻によって一時は滅亡の危機に立たされた上杉家ですが、本能寺の変という幸運によって息を吹き返し、その後は豊臣家の臣下となり、上杉景勝は五大老の一人に任ぜられます。そして、徳川家康を牽制(けんせい)する東の大国として豊臣政権の一角を担っていきます。

豊臣秀吉が慶長三年(1598年)に没すると、徳川家康は徐々にその本性を現す。秀吉の遺言や大名間の取り決めを勝手に破り、有力大名と婚姻関係を結んだり接近するなどして裏工作を始め、反抗勢力には「謀叛」の噂を流させ、力で屈服させていきます。(前田利長など)

その矛先は上杉家にも向けられる。徳川家康は、上杉家の領内における軍備増強が謀叛の兆しだとして、「上洛して弁明するように」と圧力をかけます。直江兼続は、家康の日頃の身勝手ない振る舞いに加えこの露骨なやり口に激怒し、果敢にも一通の弾劾状を送り付けます。これが世に言う「直江状」です。

挑発

自身は五大老でもなければ五奉行でもない、上杉家の宿老という身でありながら、果敢にも大老徳川家康に送った弾劾状。その内容は家康の追求に対し冷静的確に返答しつつ、「家康さん、あんたもちょっとおかしいんじゃないの?」的なことも織り込んで書き綴ったものでした。さすがの家康も痛いところを突かれ赤面しましたが、それでも思惑通り「上杉征伐」を敢行していくことになります。そしてこの上杉征伐を機に石田三成が佐和山で挙兵し、関ヶ原の合戦へと繋がってゆくのです。

関ヶ原の合戦は、いわば直江状がトリガーになったともいえます。

直江状(一部抜粋)
  • 上洛が遅れていることについて、はてさて上方ではいろいろと噂が流れているようですね。こっちは越後から会津へ国替えされてから日も浅く、やっとのことで国に帰って来たのにまた上洛ですか?ろくに領内の治政もできません。それにこの時期、会津は雪で閉ざされているというのに、上洛ですか?頭おかしいんじゃないですか??
  • 真意を確かめず、讒言者の言うことを鵜呑みにして「直ちに上洛せよ」とは、軽率すぎませんか?まずはその讒言者についてしっかり取り調べするべきなんじゃないですか?頭おかしいんじゃないですか??

リストラは一切行わない

石田三成や直江兼続ら「義」を掲げる西軍は、関ヶ原の合戦において徳川家康擁する東軍に敗れてしまいます。石田三成は六条河原にて斬首。家康に反抗する勢力も一掃されてしまいました。

あれだけ威勢を放っていた上杉景勝、直江兼続主従も家康に平伏します(無念)。そして上杉家は会津120万石→米沢30万石へ大幅なボッシュート。

こういったとき、普通の大企業ならどうしますか? そうです、リストラです。リストラしなければ、賄い切れなくなった人件費で倒産してしまいます。

しかし直江兼続は、「大禄は払えんが、付いて来たい者は米沢まで付いて来い!」といって、家臣の積極的なリストラは行いませんでした。そのため、米沢藩の人口に対する武士の比率は異様に高くなってしまい、彼らは生活に困窮することとなります。

さらに追い打ちをかけるように後世には石高を15万石(1/8)まで削られてしまい、財政破たん寸前にまで追い込まれます。そこで現れる名君が上杉鷹山(1751~1822)ですが、これはこれでまたの機会に。

愛 直江兼続 甲冑

直江兼続の甲冑。「愛」の文字が斬新。現代で使うような「Love」的な意味ではなく、「愛染明王」という明王から一字拝領している。

没後の直江家は不遇

上杉家の筆頭家老として、領内の政治から諸大名との外交まで、独りで走り続けてきた孤高の忠臣。その功績は大きく、他の家臣や領民からも慕われるべきもののはずでした。そんな声の一方、「関ヶ原の合戦を起こした罪人」「上杉家を凋落させた張本人」などといった不満の声もありました。独りで領内の政治を取り仕切っていたことからも、嫉妬やよからぬ反感を買っていたのかもしれません。

こういったエピソードを聞くと、毛利家の吉川広家と境遇が似ているなと、しみじみ思ってしまいます。

あれだけ権勢を誇っていた直江兼続ですが、没後の直江家は、お家の不遇も重なって断絶してしまいます。なんか切ないですね・・・。