越後の名門、上杉家の17代目当主。叔父の上杉謙信は軍神として知られる人物。謙信の養子(姉の子)という形であり、その家督相続には多くの血が流れた(御館の乱)。織田軍には北陸方面(柴田勝家)や信濃方面(森長可)から攻め込まれ、滅亡寸前にまで追い込まれるが、信長の死という幸運に助けられ、威勢を盛り返す。豊臣政権においては五大老の一人として120万石を領し、関東の家康や奥州に睨みを利かせる。
無口な人物として有名。「男は黙って」的なノリだったのか、本当に無口な性格であったのか、どちらなのかは不明である。家臣の直江兼続は、秀吉も欲しがる逸材で、直臣になるよう口説かれていたほど。
上杉景勝の逸話、面白エピソードを紹介!
軍神として恐れられた上杉謙信が49歳で逝去する(1578年)。上杉謙信には実子が居らず、養子として育てていた長尾政景の息子「上杉景勝」と、同様に養子であった北条氏康の息子「上杉景虎」との間で家督を巡る争いが勃発する(御館の乱)。
この乱は家臣団を二分する大規模な内紛に発展していきます。内紛が長引けば隣国の武田や北条、織田といった強大な勢力に付け入る隙を与えしまい、越後国そのものが危うくなる。上杉謙信の甥(姉の子)であり、血筋で優位とされる上杉景勝は、先手を打って上杉謙信の居城であった春日山城本丸と金蔵、武器庫などを押さえることに成功。影虎は三の丸に立て篭もり対立を続けますが、劣勢が拭い切れなくなった影虎方は、元関東管領である上杉憲政の館「御館」に移ります。そして実家の北条家に加勢を求めることになります。
北条家としては、北条家の血筋である上杉景虎が家督を相続すれば、名門の越後上杉家を後方から操ることができるようになるので、北条家は同盟国である武田家に出陣要請を行ったり、自軍は三国峠を越えて越後国境に陣取るなど、越後方に圧力を加え始めます。
そうした外部からの圧力も強かったため、内紛は1年の長きに渡って繰り広げられましたが、結局、景勝の先手を打った行動が最後まで情勢を優位に進め、影虎の自刃という形で内紛は収束に至ります。
上杉影虎、26歳という若さでした。
天正13年(1585年)、羽柴秀吉とその家臣の石田三成、上杉景勝とその家臣の直江兼続、この4名が越中と越後の国境地帯である落水(おちりみず)にて会見したとされるエピソードがあります。
両者が交流するに至るきっかけとなったのは、この会見の2年前、羽柴秀吉が宿敵の柴田勝家を後方から牽制(けんせい)してもらうよう、上杉家に要請したことから始まります。
その後秀吉は、賤ヶ岳の合戦にて柴田勝家を撃破し、北ノ庄城にて自害に追い込みます。その後は越中にまで兵を進め、越中富山城主の佐々成政を大軍で包囲します。そんな情勢の中、この落水の会見が実現したとされています。
大国の主である秀吉が、いわば敵の懐(ふところ)に飛び込むかのような大胆な行動であり、景勝がその気になれば、秀吉の首を取ることも可能でした。上杉家は「義」を重んる家柄であり、景勝はこれを丁重に受けます。その後、上杉家は秀吉の臣下に降ることとなります。
この会見で相まみえた石田三成と直江兼続はこのとき共に26歳。この同い年の青年たちは、後に関ヶ原の合戦において「義」を掲げて立ち上がることとなる。この会見が史実であるかについては諸説ありますが、後に辿る歴史経緯を考えると、なかなかアツイ会見ですね。
上杉景勝といえば、無口で口数か少なかったことで有名です。これは一国を統べる大将としては、マイナス要素とも思えてしまうのですが、上杉家に身を寄せていた前田利益(慶次)などは、そんな上杉景勝を敬愛していたと伝わります。
前田慶次といえば、権力者への無礼も恐れない傾奇者(かぶきもの)ですが、その前田慶次ですら、上杉景勝の前では非礼を働くことができなかったという。
ある宴会での一幕、場も盛り上がり酒が回ってきたた頃、前田慶次は猿面をつけながら猿真似をしてフザけ始めました。そのおフザけは次第にエスカレートし、大名たちが座る席まで出向いてきて、大名たちの膝に乗るなどの暴挙に出ました。誰もそれを止められず、ますます調子に乗る慶次でしたが、上杉景勝の席まで来るとそのおフザけを中断し、平静になったといいます。
そんな威厳も感じさせられる上杉景勝ですが、一度だけ皆の前で笑ったことがあります。それは、飼っていた猿が自分のものまねをしたときです。家臣に指示をするかのような仕草や、頷いたり手を合わせたりする姿が余程面白かったらしく、「ぷっ」っと思わずムッツリ笑いが出てしまったようです。
「時は来た! それだけだ」・・・「ぷっ」