織田家古参の譜代重臣として、織田信長の手足となって懸命にに働く。天下布武事業の屋台骨の一角を担い、方面軍司令官第一号として北陸方面軍を率いた。かつては信長の弟・織田信行(信勝)を擁立し、信長に対立したこともあったが、持ち前の律儀さと戦上手な一面を買われ、主君信長の信頼を勝ち取ることに成功する。実力主義で競争の激しい織田家臣団の中で、古参ながらも確固たる地位を確立する。
ベンチャー組の羽柴秀吉とは犬猿の仲といわれており、対比されることもしばしば。フットワークの軽さと知恵でのし上がった秀吉と、戦場の槍働きで律儀に働いてきた勝家は、絶好の比較対象なのであろう。
柴田勝家 (1522~1583)
柴田勝家の逸話、面白エピソードを紹介!
信長の下で出世を遂げることとなる柴田勝家だが、実は主君信長と対立したことがある。信長がまだ「尾張のうつけ」と呼ばれていた頃の話である。当時から行動や言動に問題のあった信長に対し、弟の信行(信勝)を擁立しようという動きが生まれる。これに加担したのが林秀貞と柴田勝家である。
この信行擁立事件は2度に渡って起こるのだが、1度目は信長によって戦で鎮圧される。このとき信行や秀貞、勝家は信長に許されている。
しかし信行は再び信長に反旗を翻すことになる。1度目が秀貞や勝家に乗せられて反逆したのに対し、2度目は信行自身が立ちあがる形であったため、勝家はこの件を信長に密告している。結局2度目の反逆も失敗に終わり、信行は病気を装って呼び出した信長によって殺されてしまう。
柴田勝家と織田信長との主従関係は、決して初めから順調・穏便なものではなかったのである。
犬猿の仲として何かと話題になる羽柴秀吉と柴田勝家。主君信長の命令が絶対であった当時において、秀吉は勝家と口喧嘩をして、戦場を離脱するという軍法違反を犯してしまう。話によると、北陸方面で苦戦する勝家を救援するように命じられた秀吉であったが、策戦をめぐって対立をしてしまったことが原因だという。
秀吉も頭に血が上って取ってしまった行動ではあろうが、あの信長の命令に背いてまで離脱したということは、勝家との間に相当嫌なことがあったのであろう。
秀吉と勝家
勝家が生涯の中で一番肝を冷やしたのは、おそらくこのときであろう。超巨大企業にまで成長した織田家の重臣として、また北陸方面軍の指揮官としてバリバリ働いていた天正8年(1580年)のこと、勝家とともに織田家の古参の重臣であった林秀貞が、20年以上も前に起こした織田信行擁立事件の責任を問われ、突如として織田家から永久追放されていまうのである。
織田信行擁立事件といえば、秀貞とともに勝家も加担した事件である。それが追放理由ならば、自分も同罪にされてもおかしくはない。勝家は信長のこの仕打ちに超ビビるのである。
ところが勝家にはこれといった沙汰無し。戦上手であり、有能な指揮官としても成長していた勝家は、まだまだ使いものになるとの判断であったのだろうか(笑)。信長の真意は不明である。