播磨の小寺家出身の武将で、早くから織田家に付くことを進言し続けてきた。そして中国地方に進軍してきた羽柴秀吉と運命的な出会いを果たし、以後は竹中半兵衛とともに秀吉の軍事参謀(軍師)として頭角を現していく。戦国随一の切れ者として敵軍はおろか、主君秀吉からも恐れられる。切れ者ゆえの腹黒さを内包しつつも、決して主君を裏切ることのなかった忠義者の一面もある。
逸話が大げさに盛られることも多い戦国秘話において、経験・実績が豊富に残る真(まこと)の勇将といえよう。その気になって天下取りレースに躍り出てみてほしかった人物のひとり。
黒田官兵衛の逸話、面白エピソードを紹介!
中国攻めの最中、摂津の荒木村重の謀叛により後方に敵を抱えることとなり、秀吉軍は播磨の地で孤立します。官兵衛は単身有岡城に説得に赴きますが、あえなく土牢に放り込まれてしまいます。官兵衛が命の危険にさらされることとなる危機的状況であり、この幽閉は1年もの長い期間に渡りました。
衛生環境が悪く、じめじめした汚い土牢に幽閉されながらも、決して寝返ることのなかった官兵衛。播磨の地に残した妻や、織田家の人質に差し出した息子の松寿丸(のちの長政)のことが、時おり頭に浮かんでは消えました。
忠義どうこうというよりも、そういった人達を守るために懸命に耐えたのかもしれません。その代償は大きく、1年後に救出されたときには足が「く」の字に曲がり歩行困難となっており、頭も瘡(かさ)だらけだったといいます。
官兵衛は切り者ゆえに、人生大一番の時に最大のミスを犯したといわれています。秀吉と官兵衛の人生最大のクライマックスである「中国大返し」の折、その速すぎる頭の回転によって終生秀吉から警戒されることになってしまいます。
本能寺の変によって信長が横死し、その知らせに絶望する秀吉。官兵衛は冷静にこの状況を分析し、信長の弔い合戦を行うように促します。ここまでなら何ら問題ないのですが、官兵衛はうっかり言わなくてもよい言葉をこぼしてしまいます。
「殿、これで天下取りへの道(ご武運)が開けましたな」
秀吉はこの言葉を聞いて、官兵衛の凄味を感じると同時に末恐ろしさをも感じるようになったといいます。他人の心を見透かすようなこの野心的な言葉は、この場で全く言う必要のない言葉でしたが、血気盛んで野心的な一面もあった当時の官兵衛がうっかり漏らしてしまった言葉といえます。
このうっかり発言の代償は大きく、秀吉に死ぬまで警戒させられるきっかけとなってしまいました。
また、毛利両川の一角で五大老の一人も務めた小早川隆景とのこんなやりとりの中でも、切れ者ゆえの危うさを窺うことができます。小早川隆景は官兵衛に対して、こんな言葉を残しています。
何だか褒めているのだか諌(いさ)めているのかよく分からない言葉ですが、これも官兵衛の切れ者ゆえの逸話のひとつです。
関ヶ原の合戦を経て天下が徳川家康のものとなり、混沌に満ちた戦国時代が終わりを告げます。官兵衛はすでに名を如水と改め隠居し、黒田家も息子の長政が立派に跡を継いでいました。戦国の表舞台を駆け抜けた官兵衛にもやっと平穏の時が訪れます。
官兵衛はその波乱に満ちた壮年期と異なり、晩年は穏やかに時を過ごしたといいます。福岡城下の子供たちにお菓子を配って歩く、気さくなおじいちゃんだったと伝わります。歴戦の勇士も、晩年には丸くなって子供たちの未来を見据えながら、楽しい余生を過ごしたのでしょうかね。
「そなたは頭の回転が速すぎるゆえに、物事を即断することが多い。ゆえに後悔することも多いだろう。私はあなたほどの切れ者ではないから、物事をよく考えてから答えを出すので、後悔することも少ない。」