織田NOBU株式会社
最終更新日 2023/10/08

織田信孝の名言

かつてないほど恨みが込められた名言、というか辞世の句・・・。
サムネ

昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前

辞世の句(織田信孝 )

昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前

いやあ、一言で言って恨みたらたら。

ここまでドロドロした辞世の句はあるでしょうか。

織田信孝は信長の息子(三男)。

羽柴筑前は羽柴(筑前守)秀吉、つまり後の豊臣秀吉のことです。

急速に乗っ取られた織田家

1582年に本能寺の変が起き、信長が横死します。秀吉はその時中国戦線で毛利軍と対峙していました。

炎

秀吉は早急に毛利軍と講和をまとめ、京都に急ぎます。そして織田信孝を総大将に据え、山崎の合戦において明智光秀を討ちます。

織田信孝は信長の息子であり、将来織田政権の中枢に居るはずでしたが、秀吉の巧みな外交・調略によって、織田政権は急速に秀吉に乗っ取られていきます

はらわたが煮えくり返るほどの恨み

そして本能寺の変からわずか一年後、柴田勝家を賤ケ岳の合戦で打ち破った秀吉に岐阜城を包囲され、織田信孝は秀吉に降伏、自害させられます。

その際に詠まれたのが、この辞世の句だといわれています。

辞世の句中に、名指しで「羽柴筑前」と言い放っている強烈さよ

おそロシア。