織田家の武将名言

織田信長 (1534~1582)

是非に及ばず
信長が本能寺の変(1582年)で明智光秀の軍勢に包囲された時に発した言葉です。
信長は早朝に起床し、周囲が騒がしいので小姓に確認をさせました。そして桔梗の旗印(明智軍)に包囲されていることを知ると、「是非に及ばず」と発しました。
言葉の意味は「今さらどうこう言っても仕方がない」という意味です。
信長の基本戦略は、勝てるときにしか仕掛けないです。
戦で重要なのは軍勢の数と周囲の情報です。信長が敵より少ない軍勢(寡兵)で仕掛けたのは、桶狭間の戦いと天王寺合戦くらいで、基本的に雌雄を決する決戦は大軍で仕掛けています。
また、戦況が著しく悪化した場合は一度身を引いて軍勢を立て直すことも心得ています。信長は、逃げることが可能であれば恥じることなく逃げます。自分の身さえ無事であれば、また再起することができることを熟知しているからです。
その信長が明智軍に包囲されていることを知り、即座に「是非に及ばず」と発したのは、この時点でもう死を覚悟していたのだと思います。織田家のナンバー2の実力を持つ明智光秀の技量を熟知していた信長だからこそ、もう逃げられないと悟ったのです。
信長の潔(いさぎよ)さがよく分かる言葉です。
織田信孝 (1558~1583)

昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前
いやあ、一言で言って恨みたらたら。ここまでドロドロした辞世の句はあるでしょうか。
織田信孝は信長の息子。羽柴筑前は羽柴(筑前守)秀吉、つまり後の豊臣秀吉のことです。
1582年に本能寺の変が起き、信長が横死します。秀吉はその時中国戦線で毛利軍と対峙していました。
秀吉は早急に毛利軍と講和をまとめ、京都に急ぎます。そして織田信孝を総大将に据え、山崎の合戦において明智光秀を討ちます。
織田信孝は信長の息子であり、将来織田政権の中枢に居るはずでしたが、秀吉の巧みな外交・調略によって、織田政権は急速に秀吉に乗っ取られていきます。
そして本能寺の変からわずか一年後、織田信孝は秀吉に降伏し、自害させられます。
その際に詠まれたのが、この辞世の句だといわれています。
おそロシア。
明智光秀 (1528~1582)

仏の嘘は方便と言う。武士の嘘は武略と言う。百姓の嘘などはかわいいものだ。
うむ。超絶ブラック企業「魔王信長カンパニー」の実質的ナンバー2として多忙な日々を送り、心身ともに疲弊しきっている「みっちゃん」の姿が思い浮かぶ。
みっちゃん | いやぁ、マジキツイんすよ、丹波平定。あそこは山間の窪地に無数の地侍が縄張りあってて日々謀略やダマシ討ちが・・・ |
みっちゃん | 徳川家康さんの接待に鮒寿し出したんだけどさ、「おいキンカン頭、料理が腐ってるわ!」とか信長様がブチ切れだしてさー・・・ |
みっちゃん | それに比べれば、百姓の嘘なんてかわいいもんだよね。「年貢、うっかり納め忘れましたー」とかさぁ。 |
というのは冗談で。(笑)
実際の所、明智光秀は領民に対して慈悲深く、彼の統治する領内の領民に慕われていたとよく耳にします。
少し皮肉を込めた言葉ではありますが、彼の慈悲深さが伝わってくる言葉です。最期は落ち武者狩りの領民に殺されてしまったわけダガー。