昔から私はあまり感情の起伏が激しくない人間であるが、人の別れに対面するとき、感情が高まって泣いてしまうことが多い。
初めて通夜に参加したのは私が20歳頃のことであるが、この時も(母方の)叔父の葬儀でした。
故人とはあまり話をした経験がなかったが、成人の折に手紙を受け取った記憶がある。そのくらいしか思い出のない関係性でした。
でもいざ亡くなった叔父を前にしたとき、なぜだか涙が出てきました。母さんが泣いていたことも関係していたと思いますが、一人の人間が終焉を迎える葬儀という場で、感情が高ぶってしまったのを覚えています。
家族・友人・色々な思いが凝縮される場所が、葬儀の場なのだと思いました。沢山の人の感情の波に流されるように、私も泣いてしまったのかもしれません。
今回、感情を文字に書き起こすことにした通算4回目の葬儀でも、私は涙を流してしまいました。少しずつ別れの場には慣れてきましたが、やはり「悲しみ」に感情を高ぶらされる。
20年前、あまり親しくないにも関わらず奨学金の保証人を快く受けてくれた叔父さん、ありがとう。なかなかできることではない、すごいことだと思う。
丁度ロシアのウクライナ侵攻と時を同じくしたので、少し思うところがあった。
「憎しみ」という別感情のない別れは、幸せなのかもしれない。
2022年3月5日、ロシアはウクライナ侵攻を継続しており、沢山の「憎しみ」を伴った別れに直面させられる家族が増えている。
戦争なんてすんじゃねぇよ、権力に支配されたバカ共が。
これが一市民の声だ。
もちろん互いの正義を貫く戦争もあることくらい知ってる。だがお前らはバカだ。何千年同じこと繰り返してるんだよ。こんなこと繰り返すのが人類なら、いっそ滅んでしまえとさえ思う。
今回、あまり文字数は多くないですが、言葉に書き起こすことにしました。