織田NOBU株式会社
最終更新日 2023/10/08

真田三代を比較するゾ!

真田三代の、功績や知名度を比較してみるゾ。
サムネ

真田三代の知名度、功績を比較

真田三代の知名度、功績を比較分析。

真田幸隆 (祖父)

真田幸隆
生涯 1513年~1574年
知名度
功績 ★★★

真田氏の祖ともいえる人物。

小県・海野平に侵攻してきた武田信虎・村上義清・諏訪頼重連合軍によって、一時は土地を追われるが、信虎を追放した武田晴信(のちの信玄)に仕官し、真田氏の旧領回復を成し遂げる。

真田幸隆は傑出した知略の持ち主で、武田家中でも次第にその頭角を現してゆく。

信玄はその頃、信濃の村上義清と対峙していたが、上田原合戦、砥石崩れと、2度に渡る大敗を喫していた。村上方の要「砥石城」は、信玄がどうしても手に入れておきたかった城だったが、先の砥石崩れによって多くの将兵を失っていた。

真田幸隆は、計略によって砥石城内部やその周辺の国人を武田方に寝返らせ、信玄が落とせなかった砥石城を、ほとんど無傷で手に入れるのである。

その後は北信濃の海飾城、上野の岩櫃城、白井城などを攻略し、武田家の領土拡大に貢献している。

真田昌幸 (父)

真田昌幸
生涯 1547年~1611年
知名度 ★★★
功績 ★★★★★

ザ・信濃の生んだ諸葛孔明

武田信玄、父・幸隆から計略・謀略を教え込まれ、その鬼謀は彼らを凌ぐほどに。

天正壬午の乱における混乱の中、機略縦横な采配によって真田家を大名として独立させる。

寡兵で徳川の大軍を2度に渡って退ける。

功績の割に一般的知名度が低いこともあって、私のヨイショ感にも拍車が掛かる!

関ヶ原の戦いにおいては、息子・信幸(兄)は徳川方に、昌幸自身はもう一人の息子・幸村(弟)とともに豊臣方に付く。

これは縁戚関係上、自然な流れであったが、昌幸のことだからお家の生き残り戦略として、あらかじめ予見策を取っていたとしても不思議ではない。

真田信幸 (兄)

真田信幸
生涯 1566年~1658年
知名度 ★★
功績 ★★★★

信州松代藩の開祖。

嫁の父は、徳川四天王、生涯無傷のエース本多忠勝。

私情を押し殺して勝者の側に付き、真田家を徳川の世にまで存続させた功績は大きい。

(※私情とは、先に書いた父・昌幸、弟・幸村との決別である)

結果が全ての戦国時代。冷静に功績だけを見れば、高野山へ配流となった父・昌幸よりも優れている、ともいえるかもしれない。

関ヶ原の戦いが終わると、父・昌幸、弟・幸村には死罪が言い渡されるが、信幸や義父・本多忠勝の助命嘆願によって、父・昌幸、弟・幸村は死罪を免れ高野山九度山へ配流・蟄居となる。

その後も九度山へ援助を絶やさないなど、親子の情の厚さを垣間見ることができる。

真田幸村

真田幸村
生涯 1567年~1615年
知名度 ★★★★★
功績

知名度と功績のギャップ。少し皮肉を込めてしまっています。

「幸村! 幸村!」と何かと盛り上がり過ぎな所、真田幸村自身が少し不憫にすら思う。

戦国モノでは必ずイケメンとして描かれる幸村。

大坂の陣に散った美しい花のような扱い。

真田幸村は、大坂の陣までは全くの無名で、最期に大きな花火を打ち上げた人物。

徳川本陣に都合3度突撃し、家康に切腹を決意させるまで追い込むところが、最初で最後のクライマックスです。