真田三代の知名度、功績を比較分析。
生涯 | 1513年~1574年 |
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知名度 | ★ |
功績 | ★★★ |
真田氏の祖ともいえる人物。
小県・海野平に侵攻してきた武田信虎・村上義清・諏訪頼重連合軍によって、一時は土地を追われるが、信虎を追放した武田晴信(のちの信玄)に仕官し、真田氏の旧領回復を成し遂げる。
真田幸隆は傑出した知略の持ち主で、武田家中でも次第にその頭角を現してゆく。
信玄はその頃、信濃の村上義清と対峙していたが、上田原合戦、砥石崩れと、2度に渡る大敗を喫していた。村上方の要「砥石城」は、信玄がどうしても手に入れておきたかった城だったが、先の砥石崩れによって多くの将兵を失っていた。
真田幸隆は、計略によって砥石城内部やその周辺の国人を武田方に寝返らせ、信玄が落とせなかった砥石城を、ほとんど無傷で手に入れるのである。
その後は北信濃の海飾城、上野の岩櫃城、白井城などを攻略し、武田家の領土拡大に貢献している。
生涯 | 1547年~1611年 |
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知名度 | ★★★ |
功績 | ★★★★★ |
ザ・信濃の生んだ諸葛孔明。
武田信玄、父・幸隆から計略・謀略を教え込まれ、その鬼謀は彼らを凌ぐほどに。
天正壬午の乱における混乱の中、機略縦横な采配によって真田家を大名として独立させる。
寡兵で徳川の大軍を2度に渡って退ける。
功績の割に一般的知名度が低いこともあって、私のヨイショ感にも拍車が掛かる!
関ヶ原の戦いにおいては、息子・信幸(兄)は徳川方に、昌幸自身はもう一人の息子・幸村(弟)とともに豊臣方に付く。
これは縁戚関係上、自然な流れであったが、昌幸のことだからお家の生き残り戦略として、あらかじめ予見策を取っていたとしても不思議ではない。
生涯 | 1566年~1658年 |
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知名度 | ★★ |
功績 | ★★★★ |
信州松代藩の開祖。
嫁の父は、徳川四天王、生涯無傷のエース本多忠勝。
私情を押し殺して勝者の側に付き、真田家を徳川の世にまで存続させた功績は大きい。
(※私情とは、先に書いた父・昌幸、弟・幸村との決別である)
結果が全ての戦国時代。冷静に功績だけを見れば、高野山へ配流となった父・昌幸よりも優れている、ともいえるかもしれない。
関ヶ原の戦いが終わると、父・昌幸、弟・幸村には死罪が言い渡されるが、信幸や義父・本多忠勝の助命嘆願によって、父・昌幸、弟・幸村は死罪を免れ高野山九度山へ配流・蟄居となる。
その後も九度山へ援助を絶やさないなど、親子の情の厚さを垣間見ることができる。
生涯 | 1567年~1615年 |
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知名度 | ★★★★★ |
功績 | ★ |
知名度と功績のギャップ。少し皮肉を込めてしまっています。
「幸村! 幸村!」と何かと盛り上がり過ぎな所、真田幸村自身が少し不憫にすら思う。
戦国モノでは必ずイケメンとして描かれる幸村。
大坂の陣に散った美しい花のような扱い。
真田幸村は、大坂の陣までは全くの無名で、最期に大きな花火を打ち上げた人物。
徳川本陣に都合3度突撃し、家康に切腹を決意させるまで追い込むところが、最初で最後のクライマックスです。