真田幸村が有名になった理由

無職引きこもり、生涯最後に名を遺す。
サムネ

有名な父、無名な息子

真田幸村の半生を紐解けば、大坂城に登城する時点では、全くの無名であったことが分かる。

有名人の父

父・真田昌幸は、天正壬午の乱において真田家を大名として独立させ、信州上田合戦においては2度に渡って寡兵で徳川軍を翻弄している鬼謀の持ち主である。

齢70を過ぎ、狡猾な古狸と化した徳川家康でさえ、大坂城に真田の者が登城したとの報を聞き、

それは父親(昌幸)の方か? それとも息子(幸村)の方か?

と、必死の形相で家臣に問いただしている。

徳川家康と真田昌幸

これはもちろん、真田幸村を恐れているのではなく、父・真田昌幸の鬼謀を恐れてのことである。

(大坂の陣から遡ること3年前、父・昌幸は蟄居先の高野山九度山にて逝去している)

無名二世の息子

真田幸村が無名であったために、大坂城内では幸村を軽視するかのようなやり取りもあった。

真田幸村は後藤又兵衛とともに、積極好戦に打って出る策を大坂首脳陣に提案する。

京都の南方に流れる「宇治川」「瀬田川」を防衛ラインとし、東から攻め寄せてくる徳川勢を水際で叩く。

という野戦提案である。

故・秀吉の築いた大坂城の防御力に頼る大坂首脳陣は、この野戦提案に強く反対し、結局、消極策である籠城策をとる形で評定は決した。

この野戦提案がもし、無名の幸村ではなく、昌幸によるものであったなら、もしかしたら、この野戦提案は採用されていたかもしれない。 (歴史IF)

実際、昌幸は大乱を予見し、徳川軍を食い止めるための大規模な野戦策戦を練っている。

しかし、余命ついえ、昌幸は大坂の陣に先立って逝去してしまうのであった。

大阪城

有名になった理由

大坂の陣で活躍した武将には、後藤又兵衛、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登、塙団右衛門(直之)などが名を連ねるが、なぜ真田幸村だけ突出した人気を誇るようになったのだろうか?

後藤又兵衛

後藤又兵衛

真田幸村の名前が一気に広まるのは、大正時代に立川文庫(たつかわぶんこ)より刊行された「真田幸村」「猿飛佐助」「霧隠才蔵」「三好清海入道」といった、いわゆる「真田十勇士」を取り扱った作品が、次々と世に出された時期からである。

この立川文庫(たつかわぶんこ)、大阪の立川文明堂から刊行されているだけあって、豊臣秀吉や豊臣方のヒーロー作品を取り扱ったものが多い。

大坂の地に散った悲劇のヒーロー「真田幸村」は、この頃より人々の心に刻まれ、戦国随一の人気を誇る武将として広く知れ渡ってゆくこととなるのです。