大坂城南東に築かれた出丸(曲輪)のことである。
秀吉の築城した巨城・大坂城は、周囲が惣堀(総構え)と呼ばれる大きな堀で囲われており、大軍をも寄せ付けない鉄壁の防御力を誇りました。
真田幸村は大坂入城を果たすと、大坂城周辺の見取り図を確認し、大坂城南東の一角「平野口」と呼ばれる場所の守りが弱いことに気が付きます。
ここに東西約180mの半円形の出丸「真田丸」を築き、押し寄せる徳川の大軍を側面攻撃、得意の挑発・真田兵法を用いて敵に大きな損害を与えました。
大坂城の南東、天王寺区に真田山公園と呼ばれる場所があります。
この近辺に、真田丸があったとされます。
大坂の陣の布陣図と比較すれば分かりますが、大坂城を覆う惣堀が、いかに巨大な外堀であったかが伺えます。
大坂冬の陣で徳川家と和睦する形となった豊臣家は、和睦を条件にこの惣堀を全て埋め立てられてしまいます。
丸裸同然となってしまった大坂城は、続く大坂夏の陣で籠城策を取ることが出来なくなり、あえなく滅亡させられてしまうのです。
ここでちょっと豆知識を。
武田信玄の軍師・山本勘助は築城の名手であったといわれており、勘助の縄張りには「勘助曲輪(郭)」と呼ばれる独特の曲輪がありました。
山本勘助の築城技術は「勘助流」と呼ばれ、山本勘助の手掛けた信州の高遠城、小諸城、海津城でその遺構を確認することができます。
「勘助流」の特徴は、大きく外側に突き出た「半円形、三日月形」の堀にあります。真田幸村の真田丸からも、この「勘助流」を取り入れたと思われる出丸造りが見受けられます。
武田家ゆかりの軍師・山本勘助による「勘助流」はその後、同じく武田重臣の馬場信春に受け継がれます。そしてその伝承が、真田昌幸、真田幸村へと伝わっていったのかもしれません。