武将名言 豊臣家
武将名言 豊臣家

豊臣秀吉(1537~1598)

豊臣秀吉

返す返す、秀頼の事たのみ申し候。 五人の衆(五大老)たのみ申し候。 たのみ申し候。

秀頼とは秀吉の跡取りのことで、このとき若干5歳。秀吉は生涯を通して子宝に恵まれず、この秀頼が唯一血の繋がった跡取りでした(本当は秀吉の子供ではない、という噂もありますが)。

この言葉は天下人の秀吉が死ぬ前に、家臣に宛てて発した言葉といわれていますが、幼い息子秀頼と豊臣家の行く末を案じる、秀吉の悲痛な訴えが伝わってくる言葉です。

秀吉の憂いは悪い方向に的中します。彼の死後、天下は五大老の一人、徳川家康の手に落ち、秀頼は家康の手によって殺され、豊臣家は滅んでしまいます。

豊臣秀長(1540~1591)

豊臣秀長

内々の儀は宗易に、公儀のことは宰相に

豊臣秀吉の義弟であり、秀吉を若き日より支え続けた豊臣秀長が、豊後(大分県)の大友宗麟に発した言葉と伝えられています。

宗易=千利休、宰相=豊臣秀長を指しています。つまり、表立って相談しにくい事柄については千利休に相談し、それ以外の公事の事柄については豊臣秀長に相談してください。という意味です。

この言葉から豊臣政権の中枢を読み取ることができます。

千利休は茶道を大成させた茶人・文化人であるとともに、豊臣政権における重要な外交官でもありました。当時、茶の湯は大名・武将間における大切なコミニュケーション・ツールであり、茶室と呼ばれる密閉された空間は、内々の相談事をするのに大切な場所でもありました。

豊臣秀長は譜代の家臣が少なかった秀吉にとって大切な義弟であり、多忙な秀吉の右腕として、合戦の副大将なども兼ねていました。大和(奈良県)・紀伊(和歌山県)などの畿内重要拠点を任され、官位も従二位権大納言を与えられていることから、秀吉から絶大な信頼を得ていたことが分かります。


豊臣秀長と千利休が豊臣政権下で重要な役割を果たし、双璧をなしていたことが窺われる言葉です。