武将名言 徳川家
武将名言 徳川家

徳川家康(1543~1616)

徳川家康

人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし、心に望み起らば困窮したるときを思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え、勝つことばかり知りて、負けることを知らざれば、害その身に至る。
己を責めて人を責めるな、及ばざるは過ぎたるより勝れり。

今川家の人質、次は織田家の人質と、不遇な幼少期を過ごし、念願の独立を果たした後も、信長の東の盾として当時最強を誇る武田軍と直接対峙し、信長にこき使われた家康。

妻の築山殿と息子の信康が武田に内通しているという疑いを掛けられ、信康が将来有望な武将であることに危機感を抱いた信長の命令によって、妻と息子の殺害を自らの手で実行した家康。

信長の死後も、時の天下人である豊臣秀吉に従い、先祖代々ゆかりのある三河を捨てて、未開の関東地方に領地替えを言い渡され、それを飲んだ家康。

人生の大半を忍従し続けてきた家康だからこそ、この言葉の重みが伝わってきます。

家康は、これらたび重なる苦労に耐えに耐え、人生の最後に天下を勝ち取り、その後260年続く江戸時代の礎を築きました。

本多正信(1538~1616)

本多正信

それを聞いて安心致しました

本多正信は徳川家康が一番信頼を置いていた参謀です。それを象徴する言葉として、徳川家康と本多正信の関係は「水魚の交わり」と例えられたりします。魚は水がなければ息絶えてしまいます。「水魚の交わり」とは、そういった欠かすことのできない存在や関係性を指す言葉です。それほどに徳川家康と本多正信は、お互いの呼吸や思惑を理解し合っていたと云われます。

この「水魚の交わり」を表す有名なエピソードのひとつを紹介したいと思います。
関ヶ原の戦いの前年(1599年)、五大老の一人である前田利家の死去をきっかけとして、豊臣家の文治派である石田三成が、武断派の加藤清正や福島正則に襲撃される事件(石田三成襲撃事件)が発生します。

このとき石田三成は皆の意表を突いて、あろうことか影で糸を引いていた徳川家康の元に助けを請います。徳川家康にとっては生かすも殺すも家康次第。ですがここで石田三成を殺してしまっては、悪者が居なくなってしまう(文治派と武断派の仲を引き裂いて、豊臣家を内部崩壊させることができなくなる)。

この石田三成の処遇について、本多正信は気になって徳川家康に尋ねます。徳川家康は「わしもいま、そのことを考えている最中よ」と返答します。それを聞いた本多正信は「それを聞いて安心致しました。」と言ってその場を退出したと云われています。

本多正信は徳川家康の「考えている最中だ」という言葉だけで、何を考えていて、これからどう行動する予定であるのかまで理解できたといいます。「本当かよ!?」と疑問に思ってしまうエピソードですね(笑)。後世の創作のような気もしますが、「本多正信と徳川家康の信頼性の高さを窺うことができるエピソードです。

余談ですが、徳川家康が死去した直後、後を追うように本多正信も息を引き取ります。まさに「水魚の交わり」のような主従関係でした。