島津家久 ~釣り野伏せを得意とした天才軍略家
島津

島津家久について

九州の薩摩国(鹿児島県)を本拠に、鎌倉時代から幕末まで君臨し続けた名門「島津家」。特に16代当主「島津義久」の世代には最盛期を迎え、九州統一目前にまでその版図を広げる、しかし、20万もの大軍で攻め込んできた豊臣軍に敗れ、豊臣秀吉に屈することとなる。当主島津義久とその弟の島津義弘、島津歳久、島津家久は島津4兄弟と呼ばれ、固い結束で結ばれていた。
その中でも特に軍略に長けた4男「島津家久」にスポットを当てていきたいと思います。

島津家久・・・祖父の島津忠良から「軍法戦術に妙を得たり」と称され、その天才的な軍略で大友軍・竜造寺軍・豊臣軍を圧倒する。40歳という若さで家臣に惜しまれつつも病没する。(※肖像画はおそらく現存していません)

釣り野伏せ

釣り野伏せ・・・合戦における戦法の一つで、特に島津氏が得意とした。その字からも連想できるように、
 ① 囮(おとり)となる部隊を配置して敵部隊を釣り
 ② エサに引っかかったところを野に伏せておいた伏兵で包囲殲滅する
という戦法。よくありがちな戦法だが、島津氏の場合、特に巧妙をもって釣り野伏せを仕掛けたことにより、数々の大物武将を釣り上げている。

釣り野伏せ 01

囮となる部隊は、敵に計略だと悟られないように、伏兵のいる場所へおびき寄せなければならない。つまり、バレないように死兵と化して奮戦しなければならない。「適当に戦って退却」ではダメ。釣りやすいように少数で囮になり、烈火のような攻撃を防ぎつつ、敗走を装って退却をする。

釣り野伏せ 02

野に伏せておいた伏兵をもって、包囲殲滅する。

上図を見てもらえれば分かるが、囮(おとり)部隊の役割が超重要である。釣りやすいように少数で配し、調子に乗ってイケイケな敵の猛攻を防いで、なおかつ計略であると悟られないようにその場に留まってしばらく奮戦し、敗走を装って退却しなければならない。

島津家久はこの釣り野伏せをもって敵の大軍を打ち破り続けました。特に敵の大物武将を釣り上げる確率が異常に高く、武将キラーとして恐れられた。次回Vol.2では、島津家久に釣り上げられた大物武将たちを紹介したいと思います。ご清覧、ありがとうございました。

三州統一から九州制覇へ

九州 戦国大名

戦国期における九州地方は、豊後国(大分県)の大友氏の支配力が強く、また肥前国(佐賀県)の竜造寺氏の台頭も目立ってきていました。薩摩国(鹿児島県)の島津氏は悲願であった三州統一(薩摩国・大隅国・日向国)を果たし、さらなる北上を目論んでいました。

田北鎮周、蒲池鑑盛、佐伯宗天、角隈石宗、吉弘鎮信らの首Get!

そんな中、島津氏の北上を警戒した豊後の大友氏が日向国(宮崎県)に侵攻し、高城川原という場所において、島津氏と大友氏の間で大規模な合戦が展開されます(耳川の戦い:1578年)。

大友氏の当主である大友宗麟はキリスト教の布教に夢中であまりやる気がなく、総大将として出陣していなかったのに対し、島津氏は当主の島津義久をはじめ、弟の義弘、歳久、そして高城を守備する家久と、この戦に4兄弟が全勢力を掛けて挑んでいました。大友軍4万に対し島津軍3万と、数では劣勢でしたが、士気の差は歴然としていました。

この耳川の戦いにおいて、島津4兄弟はお家芸である釣り野伏せを発動させ、まんまと釣られた大友軍の有力武将の首級を多数Getします。その中には、田北鎮周、蒲池鑑盛、佐伯宗天、角隈石宗、吉弘鎮信ら、名だたる大友軍の武将が名を連ねており、この耳川の戦いを境に、大友氏と島津氏の形勢が逆転し、九州における勢力圏が塗り替わっていきます。

龍造寺隆信、江里口信常、成松信勝、百武賢兼、円城寺信胤、木下昌直らの首Get!

耳川の戦いで大友氏に大打撃を加えた島津氏と、次に対決することとなったのが、肥前の竜造寺氏です。
竜造寺氏と対立する肥前の有馬晴信からの救援要請を受けて、総大将を島津家久とする援軍が派遣され、島原半島において、島津・有馬連合軍と竜造寺軍との間で衝突が起きます(沖田畷の戦い:1584年)。

土地勘のない島原半島に加え、一説には兵力差が5千対5万ともいわれるほど超劣勢であったが、島津家久の仕掛けた釣り野伏せが成功し、当主龍造寺隆信、龍造寺四天王江里口信常、成松信勝、百武賢兼、円城寺信胤、木下昌直(※四天王だけど5人)らの首級をGetします。
当主を討ち取られた竜造寺氏はその後島津氏に降伏し、島津氏は九州制覇に向けて躍進していきます。

九州制覇を目前にして立ちはだかる太閤秀吉

戸次川の戦い

沖田畷の戦いから2年、島津氏は九州制覇に向けて破竹の勢いで北上し、九州の大半を制圧するに至ります。ところが、豊後の大友宗麟を討てば、九州はほどなく島津氏の手に落ちるという所で、大友宗麟の要請により、大坂城の豊臣秀吉が20万もの大軍で来襲するとの急報を受けます。
その前哨戦として、豊後の戸次川にて合戦が展開されます(戸次川の戦い:1586年)。

長宗我部信親、十河存保らの首Get!

島津家久はこの戦いの総大将として指揮し、豊臣方は四国の雄 長宗我部元親、嫡男の長宗我部信親、仙石秀久、十河存保、大友義統らが参陣します。この合戦は豊臣軍の統制が上手く取れておらず、仙石秀久の独断専行もあって、島津家久の釣り野伏せがまたしてもクリーンヒットし、長宗我部家 嫡男の長宗我部信親、三好一族の十河存保の首をGetします。

長宗我部元親も息子の死を聞いて自害しようとしましたが、家臣の説得により四国に落ちのびることとなります。長宗我部元親はこの戦において嫡男を失ったことで相当ショックを受け、一気に老けこんでしまったといわれます。

と、多くの武将が島津家久の釣り野伏せの犠牲になっていることが伝わったと思います。これほどまでに有名武将をことごとく討ち取った戦国武将は島津家久をおいて他に居ないのではないでしょうか。島津家久は兄の島津義久、島津義弘に比べてかなりマイナーな武将ですが、武将キラーとしての彼の活躍は賞賛に値すると思います。以上、3回に渡ってご清覧ありがとうございました。