武断派と文治派の対立 ~移りゆく時代の中で
武断派と文治派
武断派
(武功)
・・・ 主に戦場での槍働き(戦功)によって、出世をしてきたタイプ。強行派。
文治派
(官僚)
・・・ 槍働きよりもむしろ物資輸送や後方支援、また平時においては領内の統治や新田開発・治水・検地などを行う官僚タイプ。和平派。

戦国時代の統一が進むにつれて、他国との合戦は減っていき、戦国大名たちの関心は領外から領内へシフトしていきました。それによって武功派の活躍する場はなくなり、家臣団の中では文治派が幅をきかす様になっていきました。これが両者に思わぬ軋轢を生むこととなります。

今の時代でいうと、「営業バリバリの体育会系と社内デスクワーク中心の事務系との対立」、とでも置き換えられるでしょうか。

長い間命懸けで第一線で戦ってきた武断派にとって、彼らの活躍の場が無くなり、安全な場所でろくに命を張ったこともない文治派の発言力がどんどん強くなっていく過程というのもは、本当に面白くなかったであろうことが想像できます。

加藤清正

加藤清正(武断派)

有名な所としては、豊臣政権における武断派(福島正則・加藤清正など)と文治派(石田三成・小西行長など)の対立があります。
特に石田三成は、福島正則や加藤清正にむちゃくちゃ嫌われていたらしい。彼らは三成を本気で討ち取りたくて、石田三成襲撃事件なるものを起こしたくらいですから。

いつ頃から文治派と武断派の対立が始まったのかは定かではありませんが、間違いなく関係を悪化させたのが朝鮮出兵だと思われます。

加藤清正と小西行長は朝鮮出兵で一番槍を争っていましたが、石田三成が主である秀吉に加藤清正の働きを悪く報告したり、石田三成の讒言によって、国元に蟄居させられたりしました。
石田三成はどこか不器用で固いところがあり、「現場のことを考慮しオブラートに包む」といったような柔軟な判断が苦手で、「悪く報告」というよりも、起こった事柄をそのまま正確に秀吉に報告していたのかもしれません。

また、加藤清正らが長く苦しい地獄のような朝鮮出兵を終え、九州博多に帰ってきたときに、石田三成がねぎらいの言葉として、

「ご苦労さまでした。ご苦労をねぎらって今度茶会を催したい。」

と発言したことに対し、

「何が茶会だ。俺たちが朝鮮でろくに飯も食べられず、地獄の日々を送ってきたのに、お前らは国元でぬくぬくと茶会か!」

と感じたそうです。

石田三成

石田三成(文治派)

少し石田三成の悪口っぽく書いてしまいましたが、私は石田三成は不器用だけど一番豊臣家に忠実な人物だと個人的に思っているので、石田三成は好きなほうです。
トップである秀吉の悪政を積極的に泥かぶりしていた感があるんですよね。そのくせ、そういった面を口に出したり態度に見せないから、本当に彼のことを理解している人にしか、真意が伝わらないというか。
性格的に不器用なところが損をしている印象があります。
機会があれば、石田三成についても紹介していきたいです。

ちなみに徳川家康はこれら豊臣政権内の派閥対立をうまく誘発し、家臣の分断と引き抜きを行って豊臣政権の弱体化を進めました
関ヶ原の合戦もまた、豊臣政権内の文治派(西軍)と武断派(東軍)の合戦ですよね。あの合戦は、豊臣政権内の敵対勢力を互いにぶつけており、家康軍自体の損害はあまりありませんでした。井伊直政は関ヶ原合戦の古傷が原因で、後に亡くなってしまったけど。。

のちに徳川家康もまた、豊臣家を滅ぼした後の徳川政権において、同様に派閥対立に頭を悩ませるのが、少し滑稽なところではあります。
徳川政権における派閥対立は、武断派(本多忠勝・榊原康政・大久保忠隣など)と文治派(本多正信・本多正純など)が挙げられます。

どこかの文献で読んだことがありますが、徳川政権の方針として武断派には領地を多く、官位を低く文治派には領地を少なく、官位を高くという方針を取っていたようです。
(※注 もしかしたら、外様大名と譜代大名の扱い方だったかもしれません・・・確認中です)。

おもしろい!