竹中半兵衛と黒田官兵衛 ~秀吉が頼りにした軍事参謀
竹中半兵衛 黒田官兵衛

竹中半兵衛と黒田官兵衛は、豊臣秀吉が羽柴を名乗ってた頃から秀吉を支え続けた軍事参謀(軍師)です。両者の名前を取って「両兵衛(ニ兵衛)」とも呼ばれています。

といっても黒田官兵衛が秀吉に仕えたのが1575年頃で、竹中半兵衛は1579年に36歳で病没しているので、両兵衛が同時期に活躍したのは4年間という短い期間でした。

一緒に活躍した期間は短かったのですが、彼らの間には非常に心に残るエピソードがあります。数ある戦国時代のエピソードの中で個人的に一番好きなエピソードです。文章のボリュームが結構長いですが、宜しくお願いします。

竹中半兵衛について

この回では竹中半兵衛(重治)について紹介したいと思います。私が(中学生の頃かな?)戦国時代に惹かれていくきっかけとなった人物ですので、特別な思い入れがあります。

竹中半兵衛

竹中半兵衛(1544~1579)36歳(病没)

前置きとして簡単に彼の性格を説明しますと、寡黙で無欲恬淡、戦国の下剋上の世において、出世欲がまるでない人物でした。自分の兵法を用いて采を振ることに生きがいを感じるナルシストで職人気質な人物です。熱心な技術者(スペシャリスト)とは、ある種のナルシストであると私は感じているので、そういった意味合いも込めています。容姿は華奢で女性のようだったことから、青ひょうたんと呼ばれていました。またあえて主張しない彼の性格が災いしてか、他の武将からは大分舐められていました。

とある事件が起きるまでは・・・。

難攻不落の城をたった16人で乗っ取る

半兵衛は秀吉に仕える前、美濃の斎藤家に仕えていました。当時の斎藤家は尾張の織田家に幾度となく攻め込まれており、居城の稲葉山城(後の岐阜城)が堅城ということもあり、からくも領土を守っている状態でした。斎藤道三から数えて3代目の龍興は酒と女に溺れて政務を怠り、家臣の忠誠は離れかけていました。

そんなある日、半兵衛は人質として稲葉山城に居た半兵衛の弟(久作)に仮病を演じさせます。弟の見舞と称して屈強の配下14人と稲葉山城に登城し、突如として稲葉山城を乗っ取ってしまいます。信長が何度も攻めあぐねた稲葉山城をたった16人で占領してしまったのです。その後は場外に控えていた手勢を率いれ、完全に守りを固めてしまいました。乗っ取りの際、以前から彼を罵ってきた武将も切り伏せています。

これを聞いて信長は、半兵衛に「美濃半国を与えるから稲葉山城を明け渡さないか?」と持ちかけてきますが、半兵衛はこれを一蹴。半年後には主君の龍興に城を返還します。半兵衛の目的は自身の野心から来る乗っ取りではなく、政務を怠る主君を諌(いさ)めるためだったのです。その後は下野(出奔)し、紆余曲折を経て山中に隠棲(隠居)してしまいます(半兵衛が22歳頃の話です)。

なんというか、「俺が、俺が」の戦国時代において、何て清廉潔白・無欲恬淡な人物なんだろうと、当時の私は心惹かれたのを覚えています。

岐阜城

岐阜城 (この地を岐阜と改めた織田信長は、天下布武を掲げる)

秀吉の説得に応じ、織田家の武将となる

その後、稲葉山城は信長の手に落ち、斎藤氏は滅んでしまいます。半兵衛は織田家から再三の勧誘を受け、秀吉の説得に応じて織田家の武将として活躍していきます。半兵衛は信長が嫌いだったらしく、秀吉の客将(配下ではないお客さん武将)としてならいいよと、条件に応じたとされています。信長の直下に仕えることを拒んで客将として仕えることになったのですが、形式的な話の範囲で実質織田家の武将となったわけです。

半兵衛の得意とするところは誘降(説得による制圧)で、敵味方お互いの犠牲を最小限に抑えることに重きを置いていました(この意思は以後秀吉に受け継がれます)が、信長は反抗勢力に対しては徹底殲滅策を取ります。この辺りの違いを見ても、両者はあまり折り合いがつかなかったのではと想像が出来ます。

半兵衛に関するエピソードはまだ幾つかありますが、今回はこの辺で切り上げたいと思います。次回はもう一人の両兵衛「黒田官兵衛」について紹介したいと思います。

黒田官兵衛について

この回では黒田官兵衛について紹介したいと思います。人によっては息子の黒田長政のほうが知っているという方も居るかもしれません。息子の黒田長政は初代福岡藩主で、福岡民謡「酒は呑め呑め 呑むならば」の黒田節で有名な「黒田」とは、この黒田氏のことです。

黒田官兵衛

黒田官兵衛(1546~1604)59歳(没)

黒田官兵衛は播磨国(兵庫県)の出身で、西播磨に勢力を置く小寺氏に仕えていました。居城は世界遺産で有名な姫路城です。

官兵衛が秀吉の家臣になる前、当時(1575年頃)の播磨国は西に毛利氏、東に織田氏が勢力を張っており、東西を大国に挟まれた微妙な位置(緩衝地帯)にありました。国内を統一できる力を持ったリーダーもおらず、小豪族が毛利と織田どちらに付くか日々顔色を窺っている状態でした。

ただ緩衝地帯といっても、当時の播磨国内は毛利氏の影響が強く、主君の小寺氏や重臣達は毛利氏に付くことを考えていましたが、「将来性のある織田氏に付くべきだ」とまだ齢の若い官兵衛が他の重臣達を説き伏せ、織田家に付くことになりました。

しばらくして中国地方の攻略を任された羽柴秀吉の軍勢が播磨に入国し、官兵衛が居城でもある姫路城を中国攻略の拠点にするべきだと進言し、姫路城を秀吉に明け渡します。その後は竹中半兵衛と一緒に秀吉の指揮下で才能を発揮していきます。

官兵衛についてのエピソードは数々あり一度に紹介しきれません(笑)。なぜならば、本能寺の変における中国大返し、四国征伐での長宗我部元親との対決、九州征伐での島津氏との対決、小田原征伐、と秀吉の出世街道には常に彼の姿があり、また秀吉の朝鮮出兵、はては関ヶ原の合戦時の九州席巻と、戦国史における多くの出来事に顔を覗かせてるからです。

姫路城

姫路城 (現在の姫路城は、池田輝政によって改修されたもの)

主君の秀吉ですら恐れたその知略

秀吉が、自分の死後「天下を取るのは誰か」と近習に質問したところ、前田利家や蒲生氏郷、徳川家康といった名前が出るなか、秀吉は「さも末恐ろしきは、かんぴょうえ(官兵衛)よ」と答えています。

五大老で250万石もの領土を持ち、後に天下を取る徳川家康をさしおいて、たかだか10万石程度で一参謀に過ぎない官兵衛の名前を真っ先に挙げたのです。秀吉は彼の才覚を相当に恐れ、わざと低い石高に抑えています。10万石は官兵衛の活躍にはとても釣り合わない石高ですが、秀吉は近習に「奴に100万石も与えてみろ。たちどころに天下を取られてしまうわ。」と述べています。

これを聞いて官兵衛は家督を息子の長政に譲り、自身を「如水(水のごとくしなやかに、の意)」と称して隠居します。時の権力者に目を付けられていることに対し、敵意の無いことをアピールしたのです。

遠く九州の地より、天下を窺う

時は1600年、秀吉の死後、天下をめぐって日本が東西まっ二つに分かれて争う、関ヶ原の戦いが勃発します。毛利輝元を擁する西軍と、徳川家康を擁する東軍が覇権を賭けて激突する中、遠く九州の地にてある男がその野望を再燃させます。そう、隠居後に豊前中津(九州の大分県)にて穏やかな余生を過ごしていた黒田官兵衛(如水)です。彼は全国を巻き込んだ混乱のさ中、壮大な構想を立てます。

「東西を二分するこの戦いは長期化するだろう。戦力が中央に集中している隙をついて九州を席巻し、その余勢を駆って東西両軍が疲弊した中央政権に攻め込み、黒田の旗を立てる。」

え?・・・マジすか?・・・壮大すぎて事の真相は官兵衛にしか分かりませんが、実際に官兵衛は貯め込んでいた私財を投げ売って民兵を組織し、もの凄い勢いで九州の諸城を落としていきます。ところが、皮肉なことに息子の長政が調略した小早川秀秋の寝返りもあり、関ヶ原の戦いはたった一日で終わってしまいます。その後は東軍の家康に戦勝祝いをするとともに、兵をまとめて豊前中津に凱旋帰国します。表向きは東軍として動いていたので、官兵衛の野望が明るみに出ることはありませんでした。

秀吉に一生警戒されることになったその一言

官兵衛が秀吉から警戒されるきっかけになったエピソードです。1582年に本能寺の変が起こり、信長が横死してしまいます。天下統一目前まで来ていた織田軍団は大混乱に陥り、備中(岡山県)の地において秀吉もまた絶望に打ちひしがれます。が、秀吉は頭をフル回転させ、ある可能性を見出します。

「方面軍制により、織田軍は各地に散らばってしまっている。今、ただちに大軍を動かせられるのは我が軍のみ。畿内の光秀を討てば・・・。」秀吉の天下取りへの野望が芽生え始めた瞬間です。ですが、そんな態度を周囲に見せてしまってはいけないので、秀吉は大号泣し自暴自棄になるデモンストレーション(芝居)をします。ところが、そんな演出をぶち壊すかのように官兵衛が耳元である言葉を漏らします。

「殿、これで天下取りへの道が開けましたな。」

秀吉はその言葉を聞いてゾッっとします。まだ誰にも気付かれていない秀吉の心中を見透かすようなその言葉は、官兵衛にとっては悪意を持って発言したわけではないのですが、秀吉に官兵衛の末恐ろしさを植え付け、以後秀吉が死ぬまで警戒させられるきっかけとなってしまいました。

代表的な官兵衛のエピソードを足早に紹介しました。官兵衛の凄さが伝わったかと思います。
な  の  に ・・・一般的な知名度はもの凄く低い!!(笑)

次回は竹中半兵衛と黒田官兵衛の間に生まれた絆にまつわるエピソードを紹介したいと思います。

竹中半兵衛と黒田官兵衛の間で生まれた絆

最終回となる今回は、竹中半兵衛と黒田官兵衛の間に生まれた絆にまつわるエピソードを紹介します。

播磨情勢

播磨情勢

竹中半兵衛と黒田官兵衛が同時期に活躍した当時の情勢を簡単におさらいします。黒田官兵衛の居る播磨国(兵庫県)に、信長の命を受け中国地方の攻略を任された羽柴秀吉が入国します。黒田官兵衛は臣従の証として自身の長子、松寿丸(のちの黒田長政)を人質として信長に差し出します。

播磨に入国した羽柴軍は、拠点の姫路城を中心に半兵衛・官兵衛の調略を用いて播磨国の大半を織田方に帰属させていきます。

別所長治、荒木村重の謀叛

明けて天正6年(1578年)、さらなる西進を目指していた矢先、事件が起きます。東播磨に影響を持つ三木城の別所長治が突如として反旗を翻したのです(※理由については今回は割愛させていただきます)。これに呼応するかのように播磨一帯の国人衆が一斉に反旗を翻し、羽柴軍は播磨の地にて孤立してしまいます。
そしてさらに追い打ちを掛ける事態が起きます。播磨と京を結ぶ要衝に位置する摂津国、有岡城の荒木村重までも反旗を翻してしまうのです。

播磨情勢

別所長治、荒木村重の謀叛

黒田官兵衛、土牢に幽閉される

竹中半兵衛は悪化していた持病の労咳(結核)を押して三木城包囲に在陣。
播磨における情勢の悪化に責任を感じたのか、黒田官兵衛は説得のため、荒木村重の籠る有岡城へ単身乗り込みます。

ところが説得に失敗した官兵衛は、荒木村重によって土牢に幽閉されてしまいます。この土牢は周囲を竹藪に囲まれ、沼が近く蚊・ブヨが湧き湿気がひどい。この投獄期間は1年にも及び、後に助けられたときには、頭皮はノミ・シラミに食い荒らされ瘡(カサ)だらけ、膝はくの字に曲がったまま歩行困難になってしまったといわれています。肖像画の頭巾はこのとき出来た瘡(カサ)を隠すためのものです。

さてこの官兵衛投獄の件は、信長はおろか秀吉にすら把握されておらず、官兵衛との連絡が途絶えた織田家において、時が経つにつれ「殺された」、「寝返った」などさまざまな噂が飛び交いました。官兵衛の寝返りと判断した信長は、「人質の松寿丸(黒田長政)を殺せ」と秀吉に命じます。官兵衛のことを信じていた半兵衛は、絶対命令であった信長の命に背き、全責任を背負って密かに松寿丸を自身の居城(岐阜県垂井町)に匿います。

黒田官兵衛の救出とその後

官兵衛が幽閉されて1年後、有岡城は織田軍によって陥落し、土牢から官兵衛が発見されます。官兵衛の無実が証明された瞬間です。信長は人質の松寿丸を殺してしまったことを悔やみますが、後に半兵衛によって匿われていたことを知り、胸をなでおろします。
官兵衛もまた、この件を聞いて半兵衛に大変感謝をしました。そして、お礼を言うため半兵衛の元へ訪れようとします。・・・しかし、それは一生叶わぬものとなってしまいました。

・・・そう、竹中半兵衛は黒田官兵衛が幽閉されてる間、三木陣中にて没していたのです。

竹中半兵衛 墓所

私はこのエピソードを初めて知った時、とても胸を締め付けられるような思いがしました。

「半兵衛、かっこよすぎるだろ・・・。」

竹中半兵衛との出会いは、この強烈なエピソードによって、十数年経った現在においても、色あせることなく私の心に刻まれています。

竹中半兵衛没後、黒田家は終生竹中半兵衛の恩義を忘れまいとしました。半兵衛より黒餅紋付き陣羽織を譲り受けていた黒田長政(松寿丸)は、その後替紋を黒餅にしています。

余談ですが、後に起こる関ヶ原の合戦は、竹中半兵衛の領地内で起きており、半兵衛の息子「竹中重門」と官兵衛の息子「黒田長政」は共に東軍として奮戦します。竹中重門は西軍武将の小西行長を捕縛するという手柄を立て、黒田長政もまた小早川秀秋の調略等で福岡52万石を与えられています。

以上、非常に長くなってしまいましたが、三回に渡ってご清覧ありがとうございました。

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2014大河ドラマ特集 軍師官兵衛