豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)
豊臣秀吉
豊臣秀吉 (1537~1598)

こんな人!

尾張中村の百姓から身をおこし、織田信長という最高の上司に出逢うことで、その輝かしい出世の道が開かれる。野戦は苦手だが、持ち前の明るさと知恵を駆使して、城持ち大名にまで出世を遂げる。盟主・織田信長の死を乗り越え(バネにして)、ついには天下人にまでなる。まさに日本におけるサクセス・ストーリーの代名詞のような人物である。大阪では、「太閤はん」として親しまれている。

天下を取った後の晩年はクソだが、現代でも秀吉を愛する人は数多い。秀吉の「愛嬌があって、人たらし、世渡り上手な性格」から学ぶものは、幾つもあるのではないだろうか。

呼び名など

  • さる
  • 禿げネズミ
  • 羽柴筑前守(ちくぜんのかみ)
  • 太閤殿下

性格など

  • 人の心を掴むのが上手い(人たらし
  • 「女好き・酒好き・派手好き」と、欲望に素直
  • 褒美や領土も気前よく与えるが、あまり後々のことを考えていない
  • 野戦は苦手だが、城攻めや内応、根回しは得意
  • 晩年は権力に溺れてしまった感があり、残念

おもしろエピソード

下積み時代と信長との出会い

秀吉は織田信長に取り立てられるまでに、いろいろな職業を経験したといいます。針売りの行商で遠方まで旅をしたり、川原で寝泊りをしたり。また、今川家の家臣・松下加兵衛の下で働いていたとの記録も残っています。

その後、知人の紹介によって織田信長に仕えることとなるのだが、この信長との出逢いこそが、秀吉の人生の開運であるといえます。

当時の武家社会において、家臣は譜代や武家の者から取り立てるのが常であり、出自のまるで分からない秀吉のような下賤の者は、出世はおろか家臣に取り立てられることすら難しかった。織田信長はそういった身分の垣根を越えて、能力・実力のある者は積極登用していました。これは当時としてはかなり稀な人材登用法といえます。

信長に出逢わわなければ、秀吉の才能も歴史の闇に埋もれたままであったかもしれません。

秀吉

姫路城の金銀財宝をすべて放り投げて臨んだ「中国大返し」

信長を葬った謀叛人「明智光秀」を討つため、急いで京へ上った「中国大返し」。この戦に負ければ羽柴軍の未来はない。姫路には金銀財宝が蓄えられてあったが、負けてしまえばこれの財宝も全て失ってしまう。

ならば「全てを投げ打って、この一戦に掛けよう」との覚悟で、姫路城に蓄えられていた金銀財宝をすべて兵士に分け与えてしまいます。この大胆な決断が見事に功を奏し、秀吉は明智光秀を打ち破ります(山崎の合戦)。

その後、秀吉は柴田勝家を賤ヶ岳の合戦において打ち破り、天下人へと登りつめる訳ですから、結果的に余りある程のおつりが返ってきたことになります。必要とあらば大胆に私財を投げ打つ決断、見事です。

栄華を極めた聚楽第

栄華を極めた聚楽第

我が子を跡目にしようと、強引な手口の数々

秀吉は「子宝に恵まれなかった」ことでも有名です。かなり晩年になって「鶴松」「秀頼」をもうけることになりますが、この出生についても「本当は秀吉の子供ではない」など、黒い噂が絶えません。

子宝に恵まれず、また、やっとのことで生まれた鶴松も2歳で夭逝してしまうなど、「自分の子供に後を継がせる」という夢は半ば諦めていました。そして、姉・智子の子である豊臣秀次を自身の養子とし、関白職も譲ります。

ところがその後、淀殿との間に秀頼が生まれます。秀吉は跡目を養子の秀次に譲るという方針を一転覆します。段々と秀次のことが邪魔になってきた秀吉は、秀次の「あらぬ噂」や「悪事」をでっちあげ、ついには切腹に追い込むことになります(豊臣秀次事件)。

関ヶ原で徳川方に寝返ることとなる小早川秀秋も秀吉の養子であり、将来は豊臣家の中枢に居るはずでしたが、小早川秀秋もた、秀頼が生まれたことでその人生の歯車が狂い始めます。豊臣秀次事件に連座した、という理由で中央から左遷され、九州の筑前に飛ばされてしまいます。

何かと必死な秀吉、カッコ悪い」というのが正直な感想ですが、権力を秀頼に集中させるために必要な処置であったのでしょうか。