徳川家康(とくがわ いえやす)
徳川家康
徳川家康 (1543~1616)

こんな人!

今川義元が実効支配していた三河国に生まれ、幼少期は人質として今川義元の本拠地・駿河国で人質生活を強いられる。その後、桶狭間の合戦により主君の今川義元が討ち取られると、誰も居なくなった岡崎城に帰還し、独立への第一歩を踏み出す。織田信長、豊臣秀吉という時代のトップに後れをとりつつも、堅実な外交戦略により力を蓄える。最後の最後に天下を取り、徳川260年の礎(いしずえ)を築く。

「天下が転んできた」かのように書かれることもあるが、三英傑の中で一番の苦労人はこの徳川家康といえるだろう。家臣からの人望も厚く、理想の上司ランキング上位の常連でもある。

呼び名など

  • たぬきじじい
  • 海道一の弓取り
  • 内府どの

性格など

  • 若いころは血気盛ん。晩年も小早川秀秋に寝返り催促の鉄砲を打ち放つなど、好戦的である。
  • 健康オタク。薬の調合を自分で行うなど、かなりのマニアックぶりを見せる。
  • 戦上手。生涯において、合戦では劣勢に立たされることが常であったが、それを跳ね返し続けてきた。
  • 熟女好き。外見よりも内面や大人の魅力を重視。
  • 忍耐強し。信長による息子信康の切腹命令や、秀吉による関東移封命令にも、時勢を見誤ることなく対処した。

おもしろエピソード

若かりし頃より、負けず嫌いであった

今川家の人質として、駿府の今川館で幼少期を送っていた時のこと。正月に今川の家臣達が集まる機会があったのだが、その場に人質の竹千代(家康)も居あわせていた。家臣達は竹千代を見るなり「あれが三河のいくじなしの小倅か(笑)」と皆で笑った。

竹千代はこれに怒り、縁先に立って小便を始めた。本来ならば、人質という肩身の狭い身。侮辱にも泣き寝入りするしかない場合も多い中で、大胆にも周囲をあざ笑うかのように立ち小便を決める竹千代。

「ただの頭のおかしい子」という意見はさておき、幼少期の頃からプライドと負けず嫌いな性格を垣間見ることができる逸話です。

縁側

馬上で脱糞するも、冷静に対処

家康が遠州浜松城を拠点に武田信玄と対峙していた頃の話。1573年に発生した三方ヶ原の合戦において、家康は武田信玄に大敗します。数の上でも経験の上でも格上の武田信玄に、果敢に戦いを挑んだことは後々「海道一の弓取り」として賞賛されるのですが、実はこのとき、敗走する馬上で恐怖のあまり脱糞をかましてしまいます。

何とか命からがら浜松城へ逃げ帰る家康。脱糞したことに自分ですら気がつかない始末。そこへ家臣が来て、家康が脱糞したことについて突っ込むと、家康は冷静にこう言い放ちました。

これは味噌だ

家康すげー(笑)。

徳川家康の脱糞

三方ヶ原の大敗直後に書かせたとされる自戒の画

秀吉と連れ小便

これは豊臣秀吉の小田原征伐における一幕です。秀吉は、家康と今後の領国経営の話をするために、小田原が一望できる場所に「連れションしようぜ!」と誘います。家康もこれに応じ、二人で連れ小便をすることになりました。

内容は「この広大な関東の地を家康に任せる代わりに、家康が長年に渡って守り続けてきた三河を含む旧領をわしにくれないか?」という、いわゆる領地替え(人事異動)の話でした。

秀吉は「なかなか言い出しにくい話も、連れ小便なら腹を割って話せる」ということで家康を連れ小便に誘ったわけですが、家康はこれを承諾し、祖父の代より守り続けてきた領地を離れることとなります。内心では悔しがったのでしょうが、時勢が秀吉に味方している以上、これに逆らうことはできませんでした。

しかし大物同士の連れ小便とは、これまた豪華である。何か汚い逸話ばかりになってしまいましたが(笑)、悪しからず。