織田信長(おだ のぶなが)
織田信長
織田信長 (1534~1582)

こんな人!

弱小尾張の田舎侍から始まり、たった一代で日本国のおよそ1/3を領する大企業までに発展を遂げる。拡大する領土と家臣、加速度的に膨れ上がる富と権力の中で、ついには自らをとして崇めさせるまでになる。そんな中で生まれた、慢心とも言えるべき心のわずかな隙。それが命取りとなり、天下統一目前にして明智光秀の謀叛により波乱の生涯を終える(享年49)。その散り際も潔く、無常の中に生きた人といえる。

織田信長が進めた革新的な政策の数々や天下統一への志は、後に豊臣秀吉や徳川家康によって受け継がれることとなる。現代においてもNo.1の人気とカリスマ性を誇る、日本のトップリーダーである。

呼び名など

  • 第六天魔王
  • 尾張のうつけ
  • 織田上総介(かずさのすけ)

性格など

  • 超が付くほどの慎重派、勝てない戦は仕掛けない
  • やる気みなぎる行動派、仕事量多し
  • 徹底した合理主義、不要なものは排除
  • ワンマン思考、人のアドバイスをあまり聞かない
  • 実力主義、苛烈な人事にやや難あり

おもしろエピソード

織田軍が駐留することで、京都の治安が良くなった?

戦国時代において、軍隊は領民に恐れられていました。軍隊といえば「秩序ある正規軍」のようなイメージを持つかもしれませんが、戦国時代では「戦の混乱に乗じて略奪」が軍隊によって当たり前のように横行していました。軍略の天才と呼ばれる武田信玄でさえ、戦の際には自前の軍隊に略奪を「容認」していたほどです。

織田信長はそのような「略奪行為」を一切許さず、織田軍は高いモラルによって統制されていました。織田信長が上洛する以前の京都では、昼間から強盗・略奪・辻斬りが横行していたのですが、いざ織田軍が駐留するようになると、それらの悪事を働く者は姿を潜めてしまったといいます。

また、とある織田兵士が嫌がる町娘の顔を、強引に覗き込もうとしたことがありました。これを見ていた信長は、この兵士を自ら一刀両断してしまった、という逸話も残っています。

まさに恐怖による軍事統制(笑)。

圧切(へしきり)

茶坊主を棚ごと圧し切ったとされる「圧切(へしきり)」

陽の気(オーラ)に満ちた、天性のカリスマ

織田信長は、常に体から「陽(プラス)」のエネルギーが発せられるような人物でした。声は甲高く遠くまで良く届き、睡眠時間は短く早朝より起床し、またよく動き・よく働いた。下賤の者や身分の違う者に対しても気さくに話しかけ、好奇心旺盛であった。

まさに自由奔放というか、この人の下では皆が活気に満ち溢れる、天性のカリスマ性をもった人物だといえます。

こういうときによく引き合いに出されるのが「明智光秀」ですが、光秀は信長の「陽」とは対照的に、暗くて陰湿なイメージ「陰」のオーラを感じてしまいます。

光秀と信長

光秀と信長

苛烈な人事

織田信長は徹底した実力主義・能力主義を取っており、「年功序列」とか「古参・譜代の家臣」とか、そういった枠組みにとらわれない人事を行いました。「人を道具のように扱う」というようなイメージもありますね。

苛烈な人事として有名なのが、1580年に行われた「林秀貞」や「佐久間信盛」のリストラです。リストラの理由もちょっとヒドい(笑)。

「林秀貞」は織田家古参の宿老であるが、リストラの理由は「20年以上前に裏切ったことがある」というもの。林秀貞の正確な年齢は分からないが、このとき60歳は越えていただろうと推測される。リストラといっても現世からの追放のようなもの。その後は肩身の狭い生活を強いられることに。人間50年と言われていた時代に、この仕打ちはキツイ。

「佐久間信盛」も同様、古参の宿老であるが、リストラの理由は「長きに渡る怠慢」とのこと。「明智光秀や羽柴秀吉が汗水流して一生懸命働いているのに、お前はろくに軍も動かさず、宿老という立場に甘んじ私腹を肥やしていた」とのこと。

真意は分かりませんが、急速に拡大・組織再編を進める織田家の中で、「古参」という古い考え方を持った、非常に扱いにくい立場の人達を、目の上のたんこぶのように感じたのかも知れません。