松永久秀(まつなが ひさひで)
松永久秀
松永久秀 (1510~1577)

こんな人!

畿内に威勢を誇っていた三好長慶の右筆として頭角を現し、次第に主家をも凌ぐ実力をも備えていく。やがて織田信長が足利義昭を奉じて大軍で上洛を果たすと、真っ先にこれに恭順している。織田信長から政治・外交手腕を買われ、以後は大和一国の統治を任される。信用のおけぬ老人と言われ、度重なる謀叛を敢行したにも関わらず、信長は何度もこれを許しており、その実力と利用価値の高さが窺える。

天下の三悪事、多聞山の天守、名物茶器の平蜘蛛茶釜とともに爆死など、数多くのおもしろエピソードがあり、非常にエンターテイメント性の高い人物といえる。そのため、腹は真っ黒であるが人気は高い。

呼び名など

  • 松永弾正
  • 梟雄(きょうゆう)

性格など

  • 狡猾な老人。織田信長からその才を高く評価され、大和の国(奈良県)の統治を任されている。大和の国は「寺社の国」とも呼ばれ、その統治には困難が伴ったが、「大和一国切り取り次第」として全権を任されている。
  • 相当な悪人として名が知られている。天下の三悪事をはじめ、領民を「蓑虫踊り」と称して焼き殺すなど、悪い逸話が絶えない。
  • 女好きであったという。合戦の陣中にも女を引き連れ、「あんなことやこんなこと」をしながら、軍勢を指揮していたらしい。
  • 茶人として有名。名物茶器を数多く所有しており、中でも「平蜘蛛茶釜」は、信長が喉から手が出るほど欲しがったという。
  • 主君に対して度々裏切りや謀叛を起こすなど、油断と信用のならぬ人物。
  • 石田三成の軍事参謀を務めた島清興(左近)などは、関ヶ原の戦いの折、「今や、松永弾正や明智光秀のような果断さを持った武将は一人も居ない」などど評している。

おもしろエピソード

天下の三悪事

松永久秀は、常人では到底成し遂げられないような三つの悪事を行ったとして、織田信長から軽蔑(ある意味賞賛か?)されている。信長の言う「三つの悪事」とは、以下のことである。

  • 主君である三好家への謀叛(主家乗っ取り)
  • 室町幕府13代将軍 足利義輝の殺害
  • 東大寺大仏殿の焼討ち

魔王と呼ばれ、比叡山焼き討ちなど神仏をも恐れなかったあの信長をして、このように言わしめる松永久秀という男、相当の悪人のようである。しかし、信長は松永久秀を大和を束ねる実力者として重用し続けている。何かと規律(モラル)にうるさい信長も、この狡猾な老人の才を高く評価しているのである。

寺社

信長の生き方に影響を与えた人物

松永久秀の居城である多聞山城は、塁の上に長屋状の櫓(やぐら)が居並び(多聞櫓)、要所には四階建ての櫓が建ち並んでいたという。この四階建ての櫓は、後に「天守」と呼ばれるような築城建築様式の先駆けとなっている。

織田信長は、松永久秀の築城した多聞山城の天守造りからインスパイアされて、天下の名城「安土城」を築城したとされる。(※信長の場合、「天守」ではなく「天主」と呼んでいるが。)

また、松永久秀は信長に恭順する際、「九十九髪茄子」と呼ばれる名物茶器を献上している。松永久秀は平蜘蛛茶釜をはじめ、何十種類もの名物茶器を保有する著名な茶人であったとされる。この松永久秀の影響により、信長も「茶器コレクター」の道を歩み始めたともいわれている。

ちなみに、後に大名間に「茶の湯」と呼ばれるブームが訪れるわけであるが、それに伴って茶器は相当な高値で取引されるようになる。関東方面軍を指揮していた滝川一益などは、「領地よりも茶器をくれ!」というほどであり、その熱狂ぶりが窺える。このとき滝川一益は、「珠光小茄子(じゅこうこなすび)」と呼ばれる名物茶器を所望したとされる。

平蜘蛛茶釜

参考 平蜘蛛釜(楽天市場)

度重なる謀叛と爆死

真っ先に織田信長に降るという、身の軽さと時勢を読む先見性に富んでいた松永久秀であったが、心底信長に忠誠を誓っていたわけではなかった。

元亀年間(1570~1573年)は、信長にとって最も苦しまされた時期である。畿内に足利義昭を中心とする信長包囲網が形成され、各地で苦戦を強いられている。この一番苦しい時期に、松永久秀は信長を見限って謀叛を起こしている。結局、頼みとしていた武田信玄の病死などの不運が続き、織田軍に多聞山城を包囲され降伏している。

織田信長は、裏切り者に対しては非常に厳しい処分を下すことで有名であるが、このときは松永久秀を許している。まだまだ殺すには惜しい、利用価値のある人物と判断したのかもしれない。

そして1577年、再び松永久秀は信長に歯向かうことになる。越後の上杉謙信が上洛するのを見越しての謀叛であったとされる。上杉軍は手取川の戦い(1577年)で織田軍を蹴散らし、また本願寺、毛利とも呼応して信長包囲網の再形成がされようとしていた。そんなときに、松永久秀は謀叛を敢行している。

この判断に関しては、完全に時期尚早というか、やってしまった感がある。上杉軍が上洛するのを確認してから謀叛を起こすべきであった。結局、上杉謙信も翌1578年に脳卒中で死没している。

織田信長はこの謀叛に対しても、「平蜘蛛茶釜を渡せば命は保証してやる」と勧告しているが、松永久秀はこれを一蹴し、平蜘蛛茶釜に爆薬を詰めて、それを抱えながら爆死するのである。

享年68。梟雄と呼ばれた老人の、最期の抵抗であった。