井伊直政(いい なおまさ)
井伊直政
井伊直政 (1561~1602)

こんな人!

徳川四天王の一人。知勇兼備・文武両道の勇将で、外交・交渉能力にも長けていた。井伊氏は遠江国の井伊谷(いいのや)という場所を拠点とした豪族であるが、直政の祖父や父が戦死や誅殺されるなど不運が続き、一時没落してしまっていた。そんな折、遠江に勢力を伸ばしてきた徳川家康に目を掛けられ、幸運にも仕官を果たす。井伊氏は彦根藩として譜代筆頭にまで名を上げ、幕政の中枢を担っていくこととなる。

気性が荒く、部下にも厳しかったらしい。また、部隊を朱色に統一する様は、井伊の赤備えと称され、敵軍に恐れられた。その威容から、井伊の赤鬼とも呼ばれており、かなり強面(コワモテ)の印象である。

呼び名など

  • 井伊の赤鬼
  • 人斬り兵部
  • 井伊の赤備え
  • 徳川四天王

性格など

  • 知勇兼備・文武両道の勇将であるが、特に他国大名との外交・交渉能力に長けていた。
  • 部下に厳しく、些細なミスも許さず手討ちにすることから、「人斬り兵部」と畏怖されていた。
  • 家康の本陣に忍び込んだ武田方の間者を討ち取ったり、関ヶ原の合戦においては強引に先陣を切るなど、荒武者としてのエピソードが多く残る。

おもしろエピソード

軽装の本多忠勝、重装の井伊直政

同じく徳川四天王の一人である本多忠勝とは、ライバル関係にあったとされる。もっとも、井伊直政は本多忠勝や榊原康政よりも一回りも年少であり、本当にライバル関係にあったかどうかは分からないが。

戦場の装備で面白いのが、軽装で身軽さを重視した本多忠勝に対し、井伊直政は重装備で守備力重視あったと伝わっている。また、生涯において一度も傷を負わなかったとされる軽装備の本多忠勝に対し、重装備の井伊直政は傷が絶えなかったという。

荒武者として知られる井伊直政のことだから、重装備でゴリゴリ敵陣に押し入っていったのではないか?と想像できる(笑)。

軽装の本多 重装の井伊

赤備え、誕生

本能寺の変において信長が横死すると、かつての武田領である甲斐・信濃・上野が、徳川家康をはじめとする周辺勢力の草刈り場と化します(天正壬午の乱)。

徳川家は北条家と甲斐国において敵対することになりますが、鳥居元忠の奇襲や真田昌幸の補給路遮断などの功により、結果として甲斐・信濃は徳川家のものとなります。五か国の太守となった徳川家康は、旧武田家臣を積極的に取り込むなどして領国支配を進めていきます。

その過程において、武田軍の猛将であった山県昌景の赤備えを、井伊直政の軍に取り込むこととなります。赤備えとは、部隊の軍装を朱色に統一することです。赤一色に統一された軍隊には異様な威圧感があり、味方の士気を高めるとともに、敵軍の戦意を削ぐ効果があります。

余談になりますが、サッカーなどのユニフォームに赤を用いると、勝率が上がるという統計データがあります。これは赤色がもたらす高揚感や攻撃性が関係しているとされます。青色は沈静効果があるので、競技ユニフォームは青より赤の方がが良いとされています。

井伊の赤備え

井伊の赤備え(関ケ原町歴史民俗資料館

関ヶ原での抜け駆け

時は1600年、関ヶ原。早朝の関ヶ原一帯には濃い霧が立ち込め、視界を遮っていた。ここに総勢10万以上の軍勢が睨み合い、合戦の火ぶたの時を今か今かと待っていたのである。

徳川家康を擁する東軍の先鋒には、豊臣恩顧の猛将として知られる福島正則が任命されていた。そこに井伊直政と松平忠吉(家康の四男)の一隊が通り抜けようとした。狙いは先陣の功であり、また松平忠吉の後見人として、彼に手柄を立てさせたいという意図も孕(はら)んでいたことだろう。

半ば強引に福島隊の前進に出た井伊・松平の両隊は、西軍の宇喜多隊に鉄砲を撃ち掛け、こうして合戦の火ぶたが切られることとなる。

合戦における抜け駆けは軍法で禁止されており、まして井伊直正は軍監として兵士を監視する立場にあった。抜け駆けされた福島正則は激怒したが、結局これといった沙汰(処罰)も無かった。この抜け駆けは、家康から秘密裏に許可されていたともいわれる。つまり、この一大合戦に豊臣恩顧の武将が先陣するよりも、後々天下を治めるであろう徳川家の者が務めるのがふさわしい、ということである。

家康も、何かと口うるさい福島正則に、表向きには先陣を務めさせると約束して、味方の士気を高めさせたのかもしれない。

こうして幕を開けた関ヶ原の合戦であったが、合戦終盤、井伊直政は死兵と化して敵中突破を試みる島津義弘隊を追撃中に、島津隊の放った鉄砲に被弾してしまう。この傷が元となって、井伊直政は惜しまれつつも41歳の波乱の生涯を閉じるのである。