明智光秀(あけち みつひで)
明智光秀
明智光秀 (1528~1582)

こんな人!

源氏の流れをくむ美濃土岐氏の出自とされる。はじめ斎藤道三に仕え、その後は諸国を流浪し見聞を蓄え、越前の朝倉氏に鉄砲衆として召し抱えられる。幕府側の交渉役として足利義昭と織田信長のパイプを繋ぎ、足利義昭を奉じて上洛を果たす。織田信長にその高い実力を見込まれ、次第に重用されることとなり、新参ながら織田家のNo.2にまで上り詰める。近畿管領として、畿内統治や京都御馬揃えなども担当。

50歳を越え、本来ならば守りに入りたくなる時期に、本能寺の変を起こす。突発的な感情で謀叛を起こしたのかは定かではないが、準備不足や目測の誤りが露呈し、あえなくライバルの羽柴秀吉にもってかれる。

呼び名など

  • キンカン頭
  • 禿頭
  • 明智十兵衛
  • 惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)

性格など

  • ホームレス時代に培った見聞や人脈がかなり重宝される
  • 高い教養を持ち、幕府や天皇家、公家とも親交が深い
  • 手先も器用で、鉄砲の名手ともいわれている
  • フロイス記によれば、性格は狡猾(こうかつ)で密会を好む、とかなり陰湿な様子が窺える
  • 光秀の治世は慈愛に満ちており、領民に慕われていたらしい

おもしろエピソード

異例の出世スピード

明智光秀は新参ながら、織田家臣団の中で最初の城持ち大名に出世している。古参の佐久間信盛や柴田勝家、また信長に目を掛けられていた羽柴秀吉を差し置いてである。序列トップとして、織田信長からの厚い信任を得ていたことがわかる。その後も織田信長と明智光秀の関係は至って良好であり、織田家のNo.2として、その関係は本能寺の変の年(1582年)まで続いてゆく。

仲は良好

今だに多くの謎が残る、本能寺の変

ご存知の通り、天正10年(1582年)6月2日の早朝、京本能寺において明智光秀が主君織田信長を討ち取る「本能寺の変」が起こるわけであるが、今だにその動機については多くの謎と疑問が残る。

1528年生まれの明智光秀はこのとき54歳前後。人間五十年と言われていた当時、本来であれば第一線から身を引いていてもおかしくない年齢である。織田家の中核に居ながら、あえてリスクを冒して主君を討つという暴挙に出るには、相当の理由がありそうだ。

事件の黒幕を探す常套手段としては、その事件によって誰が一番得をしたのか?から捜査をしていくという。最終的に一番得をしたのは後に天下を取ることとなる羽柴秀吉である。本能寺の変を知った後、すばやく毛利と講和し撤退する「中国大返し」も鮮やか過ぎるといった声もある。まるで感づいていたかのような身の軽さである。

そのため、本能寺の黒幕を推理する際にはよく羽柴秀吉が引き合いに出される。個人的な感想としては、「強引にこじつけすぎじゃね?」である。羽柴秀吉がそれとなく明智光秀をそそのかし、その明智光秀を討ってさらに織田信長の息子たちを抑え込んで天下を取る、というシナリオを、当時毛利戦線で手いっぱいの秀吉が画策するだろうか?

また、秀吉を取り立ててくれたのは他ならぬ信長である。当然恩義も感じていただろうし、何より信長が死んでしまえば、織田家における自分の立場が揺らぎ・危うくなるのは容易に想像がつく。

ということで、私自身はベタに「明智光秀怨恨説」+「朝廷黒幕説」の複数要因が絡み合って起きた事件ではないかと思っています。

長宗我部氏の領土確約問題、光秀の領地没収&中国山陰地方への左遷など、掘り出したら切りがないわけだが。

長くなってしまうのでここまでにしておきますが、また別の機会があれば、この件について深くスポットを当ててみたいと思います。

愛宕神社

光秀が参拝したとされる愛宕神社

光秀渾身の一句 「時は今 雨が下しる 五月哉」 に全米が悶絶

この句を初めて知ったのは、私が中学生の頃でしたが、その隠された真意に思わず悶絶したのを覚えています。歴史ファンの間では有名な一句ですね。知らない方のために、この句に隠された裏の意味を解説したいと思います。

この句は本能寺の変が起こる直前の5月に、明智光秀が京の愛宕山で開いた連歌会において詠ったものと伝わっています。この句にはとある意味が込められているとされます。

「時は今」は、「今が絶好の機会」という意味と、明智光秀の先祖である「土岐氏(ときし)」を表しています。

「雨が下しる」には、「天下に号令する」という意味が込められています。

つまり、「源氏の名門の流れをくむ土岐氏が、天下に号令する、絶好の機会である」と読み取ることができるのです。

ドラマティックすぎるこの演出、悶絶ものです。

ちなみに本能寺の直前、光秀は吉凶を占うために 愛宕神社にてくじびきを行っていますが、3回くじを引いて全て「」だった、という。